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木下利玄とリアリズムの現在/二月の短歌

前川佐美雄『秀歌十二月』の二月では木下利玄の歌が紹介されている。

なづななづな切抜き模様を地に敷きてまだき春ありここのところに

『李青集』福永書店, 1926

『李青集』は歌文集だ。ここで『李青集』所収の散文から利玄の歌風を考え、そこから一気に現代短歌へと繋げてみたい。


利玄略歴

「道」で利玄は自身の略歴を語る。李玄は1886年に現在の岡山県北区に生まれる。藩主であった伯父が早々に亡くなると、五歳の利玄が跡取りとされ、すぐに東京行きが決まった。故郷の実の親とは離され、会うことはほとんどなかったという。

東京での「寂しい」生活のなか、「いつの頃からか俳句や歌」に関心を持ち、利玄は中学に入ると佐佐木信綱に入門した。信綱は「詠歌自在という博文館本」を利玄に渡し、「それに依て作歌するやうに」と指導したという。

『詠歌自在』は佐々木弘綱著。1897年の博文館版では佐佐木信綱が増補を加えている。元々は弘綱の単著として1885年に出版された。版元を変えて何度も再版しているということは、ひろく読まれた本なのだろう。

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「梅」の項を見ると、梅は雪が降るうちから咲くさまや、月や雪に紛れるさま、色合いの素晴らしさなどを詠むと良い、大和の月ノ瀬は梅の名所であるなどと、かなり具体的に梅の詠みかたが示されていることがわかる。

そして、㊀㊁㊂㊃㊄の言葉を組み合わせれば和歌ができるという寸法だ。和歌の作歌システムに読者を導く手法としてとてもよくできている。試しに一首つくってみよう。

野も山もゆきかふ人のなつかしく雪にまがひて梅さきにけり

次頁の例歌

なお、詠題のなかには「新題」も含まれている。「新題」とは明治に生まれた新しい事物を和歌の題にしたものだ。

まず「写真はうつしゑとよむべし」と書くところに、和歌では和語だけ使うべきだという硬い姿勢が読み取れる。正岡子規が「一切の漢語を除き候はば、如何なる者が出来候べき」と非難したのはまさにこのような旧派歌人の態度だった(「歌よみに与ふる書」1898)。

ともあれ、利玄はこの時期の自歌を「自覚して作歌してゐたとは云へない」と語っている。

略歴に戻ると、利玄は1910年に武者小路実篤らと『白樺』を創刊する。このころ利玄は窪田空穂『空穂歌集』から影響を受けた。

是迄私は、調和といふやうな事を気にして、歌を弄んでゐた事に、気がつきました。つまり歌を作る時には、何か洒落たものといふ気が、知らず識らず働いて、例へば上の句に春の淡雪があるから、下の句は白梅では調和が悪い、紅梅の方がいいなどと云ふ、考へ方をするやうになつてゐました。是はあさはかな態度で本道ではないと思ひますが、此時私はもつと自由な天地に出る事を、空穂氏に教へられました。そして竹柏会式の歌風の、稍もすると堕せんとする所の、マンネリズムを脱することが出来たと思つてゐます。

竹柏会のマンネリズムとは、先に示した和歌の作歌システムのことだろう。

次に、利玄は北原白秋『桐の花』を読んで影響を受ける。しかし、この時期の自歌は「嫌味」であり、「浅膚な官能的な、新しがりの趣味に堕落してゐる」と強く否定している。

そして、利玄は歌誌『アララギ』から影響を受ける。アララギ派の歌風から影響を受けるとともに、利玄の歌に対する島木赤彦の批評を参考にしていた。たとえば次の歌。

向つの空にくひ入る杉の木がぢつとこらへて尖りゐるかも

赤彦は「ぢつとこらへる以下は云はなくても充分だ」と評した。利玄は「そこは寧ろ得意の処であった」が、「是を聞いて首肯する処」があったという。自歌は「物象に喰ひ入らうと熱心になりすぎてゐて、是でもか是でもかといふ処が見え、騒々しく」なっている。「短歌は多くを含蓄して、少しを表はすという意気のものだと悟りました」と語る。

ここに、旧派和歌→浪漫主義→写実主義と近代短歌史を通過する明治中期の歌人の姿が典型的に表れているように思う。

しかし、利玄の歌風はアララギ派よりも自在であった。利玄は写実主義を根本に置きながらも、旧派和歌・浪漫主義的な要素を手放さない。白樺派からの影響も加味して、おおまかな言い方をすれば童謡的・民衆詩的な歌風だったと言える。その上で、当時の童謡・民衆詩とは一線を画していた。

牧歌的リアリズム

このことは、同じ『白樺』の千家元麿の詩と突き合わせればよく分かる(なお、元麿は童謡詩人でも民衆詩派でもないが、白樺派的なヒューマニズムを湛え、児童によく目を向けた詩人として例示することにしたい)。

   初めて子供を
初めて子供を
草原で地の上に下ろして立たした時
子供は下許り向いて、
一歩も動かず
笑つて笑つて笑ひぬいた、
恐さうに立つては嬉しくなり、そうつとしやがんで笑ひ
その可笑しかつた事
自分と子供は顏を見合はしては笑つた。
可笑しな奴と自分はあたりを見廻して笑ふと
子供はそつとしやがんで笑ひ
いつまでもいつまでも一つ所で
悠々と立つたりしやがんだり
小さな身をふるはして
喜んで居た。

『自分は見た』玄文社, 1918

   赤ん坊
赤ん坊は泣いて母を呼ぶ
自分の目覚めたのを知らせる為めに
苦るしい力強い声で
母を呼ぶ。母を呼ぶ
深いところから世界が呼ぶやうに
此世の母を呼ぶ、母を呼ぶ

   童
幼稚園にわが行きたるにをさな児は汗あえにつつ遊びてゐたり
足ぶみする子供の力寄り集まりとどろとどろと廊下が鳴るる
子等の列わがかたはらを行くなべに子供のにほひをさせにけらずや
幼稚園昼前にひけうなゐ等は課業の遊戯へてかへるも
 ※「うなゐ」は当時の髪型。転じて幼児の意。
学校の昼はけたれ本をよむ子供の声のしみらにきこゆ
大きな子供遊びて居たれ小さな子供歩むわすれてほとほと見惚るる
ぶくれて歩かされゐし女の児ぱたんと倒れその儘泣くも
うなゐ児のまろき柔手やはての指ゑくぼ触れじとするもあにへめやも

木下利玄『一路』竹柏会, 1924

元麿の「子供」は純粋無垢であり、また世界の深遠を知るような存在だった。総じて子どもを大人とは違う存在として描いている。

「児童」という価値観が大正期に〝発明〟されたことは現代の文化研究が明らかにしている。まず大正期に入って識字率と就学率が大幅に上昇すると、新規の読者層を対象にした〝子供向け〟の文学がつくられるようになった。同時期に輸入された教育理論の特徴は児童の個性を尊重する点であり、ここから〝子どもだけの世界〟を描いた作品が生まれる。そこには〝大人とは違って〟〝純粋無垢な〟子どもがおり、子どもたちは〝大人の考えた〟〝道徳的なメッセージが込められた〟物語のなかを生きていた(参考文献)。

要は「大人の考えるさいこうの子ども」を発明してしまったということだ。この視点から読むと元麿の詩が読みづらくなる。詩の奥にいる作者の思いが見えすぎてしまうのだ。

では、利玄の短歌はどうだろうか。元麿の詩と同じく〝大人の視点〟は感じられるものの、それは子どもに向けて微笑む目線という程度に抑えられている。これは歌が写実的だからだろう。アララギ派を吸収し、歌は「是でもか是でもかといふ処」を抑えて「多くを含蓄して、少しを表はす」ものだという理解が生んだ歌風ということができる。試みに、このような李玄の短歌を牧歌的リアリズムと呼ぶことにする。

だから利玄の短歌は新しいのだけれども、その写実性はどうしても近代の圏域に閉じ込められている。利玄は1925年2月、結核によって39歳の若さで命を落とす。『李青集』は死後に刊行された歌文集であった。

盛ったリアリズム

まさに昨日、髙良真実さんが「光(る)キミへ。リアリズムの系譜」というコラムを提出された。主旨はリアリティがありながら見栄や誇張を抱えた短歌――「盛れ」る短歌、「映え」る短歌――の系譜をたどることにある。noteとの関連では、浪漫派の短歌は盛っている、アララギ派の短歌は盛っていないと語っている(と読める)点が面白かった。詳しくは当該記事を見ていただくとして、結論部を引用したい。

リアリズムは短歌の中で、現実にありえそうな範囲で、限りなく素顔に見える「仮面の告白」ができる点に魅力があると答えられそうです。「仮面」の内実は、そうありたい状態でも、戯画化や矮小化でも構いません。萎えたりサムいなと思わないあたりで、自然に盛れるラインを探るのが、小池光以降の現代のリアリズムなのかもしれません。

一見「戯画化や矮小化」を盛れる(自己の美化)と言えるのかが気になるかもしれないが、論筋を踏まえれば「戯画化や矮小化」の背後に「自己愛」を見ていることが分かる。

そういえば、筆者も以前次のように書いたことがあった。

斉藤斎藤は「牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女のコをふつうに好きだ(宇都宮敦)を「ふつうの女のコをふつうに好きなふつうの男の子」という当たり前の「かけがえなさ」を詠んでいると評する。対して、江田は他者を「ふつうの女のコ」と称することは「ふつう」ではないとして、そこに現代の「自己愛」「自意識」の問題をみる(第13回)。

短歌五十音(え)江田浩司『メランコリック・エンブリオ 憂鬱なる胎児』

ここでは出典からもうすこし江田浩司の文章を引いておこう。

斉藤斎藤の説明によると、若者が〈私〉に表現の根拠を置くのは、「(中略)社会が流動化し、中長期的な『私』の安定が奪われたからである。」と説明される。要するに今の社会が悪いのである。もしその通りであるとするならば、ポストニューウェーブの歌は、ある世代的なルサンチマンから、「他者」をも自己化することによって、「〈私〉のかけがえのなさ」を際立せるという自己愛に向かっているということになる。
(中略)
そのような社会状況がもたらす自己愛の連鎖が、表現のエコールに繋がるのならば、まさに、「〈私〉のかけがえなさ」は、表現者の内部にのみ存在し得る同質的な横並びのものでしかない。いくらそこで、個人の平等と尊厳を称えても〈私〉が「他者」に到ることはないだろう。〈私〉の発した言葉は、〈私〉に返ってくるのみである。

うたの庫第13回「続・斉藤斎藤の評論「生きるは人生と違う」を再読する。」

現代短歌における他者の喪失、自己愛の増幅。このnoteは現代短歌の突破口を探すことを目的としていないが、あえて一言するならば、ひどく凡庸な答えではあるものの、等身大の自己・他者・世界にしっかりを目を向けることが大切なのではないだろうか。インターネットを介すると実感しにくいかもしれないが、ここにいる無数の他者はたしかに生きているのだ。

等身大の他者・世界を素敵に描く牧歌的リアリズムから、自己を素敵に肥大化させた盛ったリアリズムへ。そのどちらでもない第三の立場を考えるとき、反写実の手法が思い浮かぶ。

歌はそれほど写実的ではないものの、なぜか現実に生きている〈私〉や〈あなた〉や〈世界〉の姿がはっきりと見えてくる、そのような短歌がないだろうか。いや、現代短歌のいくつかはそれを達成しているはずである。そこから出発することが求められているのかもしれない。


おまけ:利玄の梅の歌

noteがあまりにも二月と関係ないので、最後に『木下利玄全歌集』(岩波書店, 1926)から利玄の梅の歌を引用する。年代順なため、これまで示してきた利玄の旧派和歌→浪漫主義→牧歌的リアリズムという歌風の変化と、死の影を感じる晩年の歌までを辿ることができるように思う。

朝日影うららかにして山寺の方丈の梅にうぐひすの鳴く
湘南に寒さをさけて帰り来ぬ大臣の家の梅さきにけり
梅園の梅が香淡きおぼろ夜を艶なる人のうしろ影かな
恋ゆゑに人をあやめしたをや女の墓ある寺の紅梅の花
湯の宿や梅咲く庭の宵月のうすき光に君を見し春
公園の梅林の青葉がくれの青き実のその昼われにしたしみしなり
大き農家わら葺門外ぶきもんそとの白梅の道までにほひてこの村しづか
空のいろ瑠璃になごめり白梅の咲きみてる梢の枝間々々に
室の内に瓶の梅の花のにほひみち午後あたたかに天気くもれる
花瓶の梅さかりなり室の内に夕あたたかに春かたまけぬ
山畑の白梅の樹に花満てり夕べ夕べの靄多くなりて
山畑に満開すぎし梅の花黄ばみ目に立つ夕靄ごもり

「犬の子」1901
「梅」1902
 「春雨小傘」1905
「あかり」1907
「昼顔」1908
「濁り川」1913
「春動く」1919

「春来る」1924

「早春歌」1925


付・『秀歌十二月』十二月

このnoteは前川佐美雄『秀歌十二月』読書会との関連で執筆されました。

『秀歌十二月』は古典和歌から近代短歌にわたる150首余の歌を一二ヵ月にわけて鑑賞したものです。立項外の歌を含めると400首ほどになると思われます。

『秀歌十二月』の初版は1965年、筑摩書房から刊行されました。これは国会図書館デジタルコレクションで閲覧……できなくなりました。同書は2023年5月に講談社学術文庫から復刊されています。

読書会を円滑に進めるため、歌に語釈・現代語訳などを付したレジュメを作成しました。疑問点などあればお問い合わせください。レジュメはぽっぷこーんじぇるが作成していますが、桃井御酒さんの詳細な補正を受けています。

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