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長塚節の秋の歌(九月の短歌)

長塚節について

長塚ながつかたかし(一八七九~一九一五)は現在の茨城県生まれ。前月の伊藤左千夫(一八六四~一九一三)より生年は下るが没年は二年違いに留まる。貧寒な農村のなかで長塚家は有力な豪家であった。しかし、父源次郎が政界で活躍するにあたり資産を傾け、母たかと節は心労に苛まれる。学校の成績は優秀だったが脳神経衰弱により尋常中学校を中退する。子規の「歌よみに与ふる書」などに感化された節は、一九〇〇年に上京して子規庵に赴き、以後根岸短歌会の左千夫らを関わりを持つ。左千夫とともに「馬酔木」「阿羅々木」(のち「アララギ」)の編集に携わり、左千夫没後は短い間ながら「アララギ」の範となった。節の写生歌は写生文に向かい、一九〇八年ごろから歌作が停滞すると、一九一〇年には名高い長編小説『土』を執筆した。一九一一年に咽頭結核に罹ると、作歌を再開し「病中雑詠」六三首を詠む。結核は小康を得るが、一九一三年に再発し、大作「鍼の如く」二三一首を書き継いで一九一五年に没する。

子規、左千夫、節

正岡子規、伊藤左千夫、長塚節の写生観について、形式的に整理してみよう。子規の〈写生〉は、スケッチのような実物・実景の再現を目指していた。これを純客観写生と呼ぶことにする。子規は俳句・短歌ともにこの客観写生を主張していたが、後年の子規は、短歌では客観写生が難しく、そこには主観的なものが混じると言っている。実際、子規晩年の短歌は主観的なものを多分に含む。これを主観的写生と呼ぶことにする。

いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす

 子規の〈写生〉から主観的写生に軸を置いたのが伊藤左千夫であり、純客観写生に軸を置いたのが中期の長塚節である。また、この時期の節は、季語を必要とする短歌も多くあると述べている。つまり、俳句のように短歌をつくろうとしていたということだ。一方で、後期の節は純客観写生を否定して主観的写生へ傾いていく。中期の実践にあたるのが明治三七年の「秋冬雑詠」であり、後期の実践が明治四〇年の「初秋の歌」以下の作品にあたる。……が、斎藤茂吉は「初秋の歌」「晩秋雑詠」を「写生の歌(長塚氏の言ふ)を徹したもの」と評している。後期の節は客観性を多分に残しながら主観性をにじませるようになったと捉えておこう。

長塚節の短歌への評としては、一九三四年から一九四〇年にかけての『アララギ』誌上での合評をまとめた『長塚節研究 上下』(1944)がある。前回の『左千夫歌集合評』と同種の企画である。このnoteでは歌の引用のあと、『長塚節研究 上下』を中心に評を抜粋した。
歌の引用は北住敏夫編『長塚節歌集』(旺文社文庫, 1971)から行った。【  】書きの語釈やふりがなも同書に従っているが、適宜減増している。

白埴の瓶こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり/長塚節


明治三七年

秋冬雑詠

秋の野に豆くあとにひきのこるはぐさがなかのこほろぎの声
【莠】水稗ミズビエの古名。イネ科の一年草。

稲幹いながらつかねて掛けし胡麻ごまのから打つべくなりぬ茶の木さく頃
【稲幹】稲の茎。

秋雨の庭は淋しも樫の実も落ちて泡だつそのにはたづみ
【にはたづみ】地上にたまって流れる水。

こほろぎのこころ鳴くなべ浅茅生あさぢふどくだみの葉はもみぢしにけり
【鳴くなべ】鳴くにつれて。
【浅茅生】浅茅(チガヤ:イネ科の多年草)の生えているところ。

桐の木の枝伐りしかばその枝に折り敷かれたる白菊の花

朝なあさな来鳴く小雀こがらは松のをはむとにかあらし松葉たちぐく
【朝なあさな】毎朝
【はむとにかあらし】食うためでもあるらしい。
【たちぐく】間をくぐる。万葉集1495, 4192番歌から。

掛けなめし稲のつかねを取り去れば藁のみだれに淋し茶の木は
【掛けなめし】掛け並べた。
【つかね】つかね。束ねたもの。束。

芋の葉の霜にしをれしかたへにはさきてともしき黄菊一うね
【ともしき】乏しい。
【一うね】畝。種を撒いたり作物を植えるために畑に盛り上げた土。その一列をいう。

独活うどの葉は秋の霜ふり落ちしかば目白めじろは来れど枝のさびしも

むさし野の大根おほねの青葉まさやかに秩父秋山みえのよろしも
【……の青葉】実景でありながら「まさやかに」を導く序詞。
【まさやかに】はっきりと。万葉集4424番歌から。
【歌意】武蔵野の大根の青葉ははっきりとしている。そのようにはっきりと秩父山地の山々が見え見事である。

はらはらに黄葉もみぢ散りしき真北むく公孫樹いてふこずゑあらはれにけり
【公孫樹】イチョウ。

秋の田に水はたまれり然れども稲刈る跡に杉菜生ひたり
【杉菜】トクサ科多年生のシダ。春に土筆つくしを生やす。

此日ごろ庭も掃かねば杉の葉に散りかさなれる山茶花さざんくわの花

鴨跖草つゆくさのすがれの芝に晴るゝ日の空のさやけく山も真近し
【すがれ】盛りを過ぎて衰えること。またそのもの。
【鴨跖草】ツユクサ科の一年草。夏から秋にかけて花を咲かせる。花弁はそれぞれ青、青、白。

もちの木のしげきがもとに植ゑなべていまだ苗なる山茶花さざんくわの花
【しげきがもとに植えなべて】茂った木の下に。
【植ゑなべて】植え並べて。

葉鶏頭かまつかは種にとるべくさびたれどなほしうつくし秋かたまけて
【種にとるべくさびたれど】種が取れるように衰えたけれど。
【秋かたまけて】秋になって。

さびしらに枝のことごと葉は落ちしすももがしたの石蕗つはぶきの花
【さびしらに枝のことごと】さびしそうに枝のすべてが。
【石蕗の花】ツワブキが花を咲かせるのは初冬。冬の歌か。

秋の日の蕎麦を刈る日の暖にかはづが鳴きてまたなき止みぬ
【蕎麦】タデ科の一年草。夏または秋の葉を伸ばし、花を咲かせる。実を挽いて蕎麦粉にし、蕎麦をつくる。

しののめに萵雀あをじが鳴けば罠かけてもみまき待ちし昔おもほゆ
【篠のめ】明け方。
【萵雀】アオジ。スズメ科の小鳥。
【おもほゆ】思われる。

鵲豆ふぢまめは庭の垣根に花にさきさやになりつつ秋行かむとす
【鵲豆】インゲンマメ。マメ科の一年草。

うらさぶるくぬぎにそそぐ秋雨に枯れがれ立てる女郎花をみなへしあはれ
【うらさぶる】さびれ衰える。
【枯れがれ】「……のようにふるまう」の「-がれ(がる)」。

麦をまく日和よろしみ野を行けば秋の雲雀のたまたまになく
【たまたまに】ときどき
【よろしみ】よいので。

いろづける真萩まはぎが下葉こぼれつつさびしき庭の白芙蓉しろふようの花

庭にある芙蓉の枝にむすびたるさや皆裂けて秋の霜ふりぬ
【むすびたる莢】固まってできた莢。莢が裂けて種子が見える。

いちじろくいろ付く柚子ゆずこずゑにはわら投げかけぬ霜防ぐならし
【いちじろく】いちじるしく。
【ならし】であるらしい

辣薤おほみらのさびしき花に霜ふりてくれ行く秋のこほろぎの声
【辣薤】らっきょうの古名。ユリ科の多年草。秋には紫の小花が球状にあつまった美しい花をつける。鱗茎が夏に食される。

鬼怒川きぬがはたでかれがれのみぎはには枸杞くこの実赤く冬さりにけり
【鬼怒川】栃木県北西部の鬼怒沼にはじまり、栃木県中央平地、茨城県西部をながれて利根川にそそぐ川。古名は毛野川。
【蓼】タデ科の植物の総称。ここでは水辺生。花は初秋に咲くため、「かれがれ」から晩秋~冬の歌か。
【枸杞の実】クコはナス科の落葉小低木。秋に淡い紫色の花を咲かせ、晩秋に実をつける。実は赤く熟れると下垂する。
【冬さりにけり】冬になったことだ。冬の歌。

小春日の鍋の炭き洗ひ干すかきをめぐりてさく黄菊の花
【小春日】冬なのに春のようにあたたかい日を指す。
【籬】竹や柴などで編んだ家や庭の囲い。

ほほの木の葉は皆落ちて蓄へのなしの汗ふく冬は來にけり

   鬼怒川きぬがはのほとりを行く
秋の空ほのかに焼くるたそがれに穂芒ほすすき白しくらくしなれども

即ち長塚氏の『写生の歌』といふのは、天然の細かい現象、植物動物のおもむきを歌ふ、範囲の狭いものであつた。赤彦君や私が、『写生』といふことの概念を押ひろげたのはもつと後である。(…)かういふ歌は、俳句にはかういふ行き方のものがあつたにせよ、和歌には先づ一つもなかつたと看てよいのである。

斎藤茂吉「長塚節」(アララギ故人評伝『アララギ』 1933-1)


明治四十年

初秋の歌

小夜さよふけにさきて散るとふ稗草ひえぐさのひそやかにして秋さりぬらむ
【第三句まで「ひそやかにして」の序詞】

植草うゑぐさののこぎり草の茂り葉のいやこまやかに渡る秋かも
【植草】植えた草
【第三句まで「いやこまやかに」の序詞】
【渡る】やってくる

目にも見えずわたらふ秋は栗の木のなりたるいがのつばらつばらに
【第三句・四句は「つばらつばらに」の序詞】
【つばらつばらに】つまびらかに。こまやかに。

秋といへばたとへば繁き松の葉の細く遍く立ちわたるめり

馬追虫うまおひひげのそよろに来る秋はまなこを閉ぢて想ひ見るべし
【第二句「髭の」まで「そよろに」の序詞】

に立てば衣うるほふうべしこそ夜空は水の滴るが如
【うべしこそ】もっともなことだ

おしなべて木草きくさに露を置かむとぞ夜空は近く相迫り見ゆ

からくして夜の涼しき秋なれば昼はくもゐに浮きひそむらし
【からくして】やっとのことで
【くもゐ】雲居。雲の居るところ。空。

うみなす長き短きけぢめあれば昼はまさりて未だ暑けむ
【苧】麻。「うみをなす」はんだ麻の意から「長き」にかかる枕詞。
【長き短きけぢめあれば】夏至から仲秋の秋分までは夜より昼の方が長い。その区別(「けぢめ」)をいう。

芋の葉にこぼるる玉のこぼれこぼれ子芋は白く凝りつつあらむ
【玉】露をたとえていう
【凝る】集まる

青桐あをぎりは秋かもやどす夜さればさわらさわらと其葉さやげり
【秋かもやどす】秋を宿しているのか
【夜されば】夜になれば

烏瓜たまづさの夕さく花は明け来れば秋をすくなみ萎みけるかも
【明け来れば】夜が明けて来れば
【秋をすくなみ】秋になってからの日数が少ないので

 土屋文明 全体が気分を主とした作で、読んでゐて何とも云へぬ快感を覚えしめるのである。此等は長塚氏の作風の一面の完成点と見ることが出来るであらう。
 鹿児島寿蔵 はじめの五首などは初秋来の気持を「ひそやかにして」「いやこまやかに」「つばらつばらに」「細く遍く」等の観想を以つてし、素地材料を実地写生から発展させてゐる点、此の作者として当然の事ながら注目に値する。
 高田浪吉 此の一聯は見たままの感じを率直に歌ってゐるのではなくて、幾度かの経験を土俵にして自然を変つた角度から見ようとしてゐるのである。

長塚節研究・下


晩秋雑詠

即興十八首

芋がらを壁に吊せば秋の日のかげり又さしこまやかに
【芋がら】芋幹または芋茎。里芋の長い葉をいう。

秋の日に干すはくさぐさ小鍋干すはうきぐさ干す張物も干す
【くさぐさ】いろいろ

葉鶏頭かまつかわらおしつけて干す庭は騒がしくしておもしろきかも

葉鶏頭はもみむしろを折りたたむゆふべゆふべにいやめづらしき
【籾の筵】籾を干すために敷いた筵
【めづらし】(めったになく)素晴らしい

荒縄あらなは南瓜たうなす吊れるうつばりをけぶりはこもる雨ふらむとや
【うつばり】屋根を支える横木。梁。
【雨ふらむとや】雨がふるのだろうか

はらはらと橿かしの実ふきこぼし庭の戸にあわただしくも秋の風鳴る
【橿の実】樫の実。どんぐり。

おしなべて折れば短くかがまれる茶の木も秋の花咲きにけり

ばらの実のあけびあけびに草白むみぞの岸にしは稲掛けにけり
【赤び】あけびの赤い実をいうか。

黄昏の霧たちこむる秋の田のくらきが方へしぎ鳴きわたる

こほろぎははかなき虫かひひらぎのはなが散りても驚きぬべし
【はかなき虫か】この「か」は詠歎。

くれなゐ二十日大根はつかおほねは綿のごとなかむなにして秋行かむとす
【なかむなにして】中身を空にして。中が空で。

咲きみてる黄菊が花は雨ふりて湿れる土に映りよろしも

此頃は食稲けしねもうまし秋茄子の味もけやけし足らずしもなし
【食稲】自家食用の穀物。
【けやけし】際立っている

縄つけて糸瓜へちまでし水際の落ち行くごろく秋は行くめり

夜なべすと縄ふ人よ鍬掛の鍬の光はさやけかるかも
【綯ふ】糸や紐を一本にり合わせる。
【さやけし】明るい。清々しい。

美しきかごの黄菊のへたとると夜なべしするを我もするかも

へたとればほけて乱るるさ筵の黄菊が花はともしかかげよ
【ほけて】ばらばらになって。
【ともし】ともしび。

障子張る紙つぎ居れば夕庭にいよいよ赤く葉鶏頭は燃ゆ

 鹿児島寿蔵 ⑴(引用注・一首目の歌)は四五句のたたみかけた手法によつて秋の日射の感じが如実に現はれている。
 高田浪吉 ⑴⑵の歌は大して良いとは思はぬ(…)。
 土屋文明 前の「初秋の歌」一聯よりもこの一聯の方が写実的で単純に行って居る。⑴⑷は殊に面白いと思ふ。
 土屋文明 ⒄【引用注・最後から二番目の歌】の「ともしかかげよ」は物語中の漢詩から来た句にありさうに思はれる句である。がもつと直接の関係あるものを求めれば蕪村の「紙燭して色うしなへる黄菊かな」あたりにあるのではあるまいか。

長塚節研究・下


明治四一年

濃霧の歌

明治四十一年九月十一日、上州松井田の宿より村閭そんりょの間を求めて榛名山はるなさんを越ゆ、湖畔を伝ひて所謂榛原はりはらの平を過ぐるにたまたま濃霧の来り襲ふに逢ひければ乃ち此の歌を作る

【上州松井田】上州は上野こうずけ国の異称、ほぼ現在の群馬県にあたる。松井田は旧町名で、現在の安中あんなか市の西部。群馬県中央部の西側にあたる。
【村閭】村里。
【榛名山】群馬県中央部の火山。
【榛原】榛(ハンノキ)の茂る原。

群山むらやまの尾ぬれにでし相馬嶺そうまねゆいづ湧きいでしあまつ霧かも
【尾ぬれ】尾末。長塚節の造語。尾根のことか。
【秀でし】飛び出た
【相馬嶺】相馬ヶ嶽、現在の妙義山の山頂。
【ゆ】から。
【いづ】厳かに、か。
【天つ霧】空の霧。

ゆゆしくも見ゆる霧かもさかさまに相馬が嶽ゆ揺りおろし来ぬ
【ゆゆし】甚だしく

はろばろに匂へる秋の草原を浪のふごと霧せまり来も
【はろばろ】遥々。はるかに。
【匂ふ】鮮やかに色づく

ひさかたの天つ狭霧さぎりを吐き落す相馬が嶽は恐ろしく見ゆ
【ひさかたの】「天」にかかる枕詞

おもしろき天つ霧かも束の間に山の尾ぬれを大和田おおわだにせり
【大和田】大和田は当て字で、本来は大曲。入江を意味するが、大海とする説もあり、ここでは後者の意。

秋草のにほへる野辺をみなそこ水底と天つ狭霧はおり沈めたり

榛原はりはらは天つ狭霧の奥を深み和田つみそこに我はかづけり
【奥を深み】奥が深いので。
【かづく】潜く。潜る。

うべしこそ海とも海と湛へ来る天つ霧には今日逢ひにけり
【うべし】なるほど
【海とも海と】海でなくとも海として

うつそみをおほひしづもる霧の中に何の鳥ぞも声立てて鳴く
【うつそみ】うつせみ。この世に生きている人間。
【しづもる】近代短歌の造語。静まると同義。

しましくも狭霧なる間は遠長き世にある如く思ほゆるかも
【しましく】暫く。少しの間。
【思ほゆ】自然と思われる

ひさかたの天の沈霧しづきりおりしかばこころも疎し遠ぞける如
【こころも疎し遠ぞける如】前歌「遠長き世」と響き合い、心が現世から遠ざかったようにぼおっとすること。

常に見る草といへども霧ながら目に入るものは皆珍しき

はり原の狭霧は雨にあらなくに衣はいたくぬれにけるかも
【雨にあらなくに】雨ではないのに

おぼほしくおほへる霧の怪しかも我があたり辺は明かに見ゆ
【おぼほし】ぼんやりと
【怪しかも】不思議なことだ

相馬嶺はおのれ吐きしかば天つ霧おりへだたりふたたびも見ず
【居へだたり】居(居ること、存在)が現世から隔たっているので


 鹿児島寿蔵 此の一聯は所謂旅行歌の中の一篇といふよりも一つの纏まつた連作として味はへる。(…)全体として荘重であると共に長塚氏らしい神経の冴えた所が随所に見受けられる。
 土屋文明 【引用注・「ゆゆしくも見ゆる霧かもさかさまに相馬が嶽ゆ揺りおろし来ぬ」について】あそこは地勢と言ふと作者の立つて居られるのは棒名山二重火山の火口原で、その南面の外輪山中の最高地点が相馬嶺であり、夏秋の雨を含んだ南の風がこの外輪山をこえて吹き下ろしてくると(…)、屡々この歌に見られるような見られるやうな光景に遭着するのである。
 土屋文明 【引用注・「しましくも狭霧なる間は遠長き世にある如く思ほゆるかも」について】この辺に来ると眼前の写生から一歩を進めて居り、玩賞者は其点を汲取らなければいけない。

長塚節研究・下


秋雑詠

葉鶏頭かまつか八尺やさかのあけの燃ゆる時庭の夕はいやおほいなり
【八尺】長いこと。
【あけ】朱色。葉鶏頭の赤い葉。

ひさ方の天を一樹ひときに仰ぎ見る銀杏ちちの実ぬらし秋雨ぞふる
【ひさ方の】「天」にかかる枕詞
【天を一樹に仰ぎ見る】「一樹」(=銀杏の木)に「天」(=秋雨)を「見る」。

秋雨のいたくしふれば水の上に玉うきみだり見つつともしも
【ともし】羨し。心ひかれる。

こほろぎの籠れる穴は雨ふらば落葉の戸もてとざせるらしき

鬼怒川きぬがはは空をうつせばふたざまに秋の空見つつ渡りけるかも

鬼怒川を夜ふけてわたす水棹みづさをの遠くきこえて秋たけにけり
【秋たく】秋闌く。晩秋に入って秋の情緒が最も強く感じられる。秋が深まる。

稲刈りて淋しく晴るる秋の野に黄菊はあまた眼をひらきたり

ひよどりのひびくの間ゆ横ざまに見れども青き秋の空よろし
【横ざま】横向き。


 鹿児島寿蔵 大体としては優れた歌が揃つてゐるとは云へまいが、八首とも作者らしい心持の遍く行きわたつた歌だと思ふ。
 土屋文明 【引用注・「ひさ方の天を一樹ひときに仰ぎ見る銀杏ちちの実ぬらし秋雨ぞふるに」ついて】「天と一樹に仰ぐ」は、天空に唯一木のみ在るを仰ぐと云ふ意味で、漢詩的措辞とでも言ふべきであらう。そこが働いてゐるところでもあらうし、歌としても目立ちすぎるので不満も由つて来るであらうが、前の「夕はいや大なり」などと共に、作者の表現苦心の跡を吾々は学ぶべきであらう。
【引用注・「こほろぎの籠れる穴は雨ふらば落葉の戸もてとざせるらしき」について」】
 竹尾忠吉 時代的に見れば、今これを単に同情的に肯定することは寧ろ無駄なことではないかと思ふ。
 土屋文明 長塚氏にはかういふ細かい感じ方があつて、例えばメルヘンでも読む様な感じであるが、(…)かういふ感じ方は吾々には無くなつて居る。(…)作る態度から言へば竹尾氏の言はれた様に、かういふものに対する執着を残して置くにもあたるまいが、味はふ点から言へばやはり味ひ別けて行く方がよいと思ふ。
【引用注・「鵯《ひよどり》のひびくの間ゆ横ざまに見れども青き秋の空よろし」について】
 広野三郎 樹の間を透かして仰いだ一碧の秋の空にうごいた作者の情感が、よく受け取れる。
 土屋文明 「横ざまに」は(…)作者の工夫があり苦心があるのであるが、それだけにこの句には問題が残つてゐる様に思ふ。併しながら一首の感銘は広野氏の言はれた如く捨てがたいものがある。
 岡麓 いつでも苦心してゐるのがわかる。

長塚節研究・下

付・『秀歌十二月』九月

このnoteは前川佐美雄『秀歌十二月』読書会との関連で執筆されました。

『秀歌十二月』は古典和歌から近代短歌にわたる150首余の歌を一二ヵ月にわけて鑑賞したものです。立項外の歌を含めると400首ほどになると思われます。

『秀歌十二月』の初版は1965年、筑摩書房から刊行されました。これは国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能です。同書は2023年5月に講談社学術文庫から復刊されました。

読書会を円滑に進めるため、歌に語釈・現代語訳などを付したレジュメを作成しました。レジュメはぽっぷこーんじぇるが作成していますが、桃井御酒さんの詳細な補正を受けています。疑問点などあればお問い合わせください。

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