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石原吉郎に学ぶ”敗者”の思想

フランクル『夜と霧』は、巨大な力に抑圧された者の再生と人生の再発見を克明に描いて世界を感動させた。
詩人、石原吉郎はそんな『夜と霧』に影響を受けた人の1人だった。だが彼のそれへの熱意は一般人とは一線を画していただろう。彼は実際にシベリア抑留の地獄を経験して日本に生還した者だったのだから。

今度は彼がシベリア抑留を経てたどり着いた「敗者の思想」に注目していきたい。
この「敗者の思想」は、ある人にとっては生きる指針ともなるだろう。

自殺すらもできなかった者の生

石原吉郎は戦争を生き延びた人であった。
戦争においては、自殺は敗北である。勝利が見えなくなったので、生きるのを自分でやめるのだ。
そんな自殺者は間違いなく敗者である。

だが石原をはじめ、敗戦国日本では全員が自殺しなかった。
石原たちは生き延びたのだ。
彼は生存が敗者の極みであることを悟った。

生存(生き延びること)は、敗者の最上級を意味する。
勝利できないという敗北、その敗者としての自殺すらもできなかったという敗北。二重の敗者である生存者は負けの最上にある。

このような敗者の自覚が、その後の生を形成する。


適応と堕落

適応とは「生きのこる」ことであり、さらにそれ以上に、人間として確実に堕落して行くことである。生きのこることは至上命令であり、そのためにこそ適応しなければならないのであり、そのためにこそ堕落はやむをえない(省略)

『石原吉郎セレクション』p.35

留置所で自殺できなかった石原は「適応」を迫られた。
最上の敗者を自覚した者は、その後の生を何とかしなければならない。「何とかする」とは、適応することである。
生き延びるには、置かれた場所に適応しなければならない。
しかし、適応とは堕落することである。敗者の生は負の降下であって、生きる意味など問うまでもない。


敗者は過去に囚われている

敗者は過去を引きずりがちだ。
過去の苦痛、絶望、不安などが頭のなかを巣食っている人は多いのではなかろうか。
石原の本当の苦痛はシベリア抑留が終わってから始まったのだと語る。実際に留置所で苦労していた時の〈原体験〉は疲労困憊のせいでそれを受け止める余裕がなかったのだという。
石原の苦悩は〈追体験〉にあった。思い出すという行為によって生み出されたものが私たちを苦しめるのだ。

シベリア抑留を経験していない私たちでも〈追体験〉の苦痛は知っているだろう。
敗者には輝かしい現在など存在しない。敗者は〈追体験〉を生きているのだ。だがこの仕組みを知っていれば、苦しむことにさらに苦しむことはないのではないか。私たちは生の体験ではなく、〈追体験〉という人工のものと戦っているのだと分かるのだ。そのことについて、もっと苦しむ必要はないだろう。


挫折を許されている

聖書を愛読していた石原は、信仰を挫折とみなした。
これはどういうことだろうか。信仰するということは、独りで立っていられないことであり、それは挫折であるということか…?

ともあれ、キリスト教徒でなくても石原の挫折論は理解できる。ここからは石原の挫折論を応用したい。
敗者は、もちろん挫折をする。
しかし、私たちの挫折全体は大きくあたたかな次元で許されているのだ。
私たちが挫折をした、あるいはその自覚をしたからといって、私たちが即時に地獄堕ちすることはない。
そう、私たちは挫折をすることを許されていると考えられるのだ。

敗者と挫折は切って離せないが、敗者には挫折が許されているし、敗者はそれを信じることができる(保証はないがその保証を待つことを許されている)。
敗者には、このような意外なアドバンテージがあるのだ。


参考文献
柴崎聰編(2016)『石原吉郎セレクション』岩波書店.


終わりに…

石原吉郎の「敗者の思想」はいかがだろうか。
その思想は、現代を生きる私たちにも密に関係のあるものと思える。

「敗者の思想」は私たちを生かしてくれる稀有なものだと私は思う。
例えば、現代では「本当の自分」に苦しんでいる人が多い。〇〇できなかった自分、敗れた自分といった現在の自分を否定するのはいいものの、実際には輝かしい”本当の自分”には全然たどり着かない。
そこで「敗者の思想」は役に立つ。
今後も生きていくつもりの私たちは「敗者」である。そこには勝利するストレスはない。

「敗者」を自覚しているからこそ、過度に人生を飛躍させるための努力なんていらないし、堕落を受容できる。
諦念から始まる人生というのも、最低かもしれないが、最悪ではないかもしれない。
敗者だからこそ、期待はいらないし、何でも好きなことをできる。
私たちは敗者であることを許されているのだから。

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