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RADWIMPSは「神」をどう歌っているのか——神の系譜学とインテリジェント・デザイン論


要約

 RADWIMPSの歌詞には「神」が多々登場する。本論は、RADWIMPSの楽曲(特に『RADWIMPS2~発展途上~』~『×と〇と罪』期の楽曲)の歌詞を分析し、彼らが「神」をどう歌っているのかを明らかにしようと試みたものである。「RADWIMPSにおける神の系譜学」の章では、彼らの楽曲を時系列で追い、彼らの描く神が「ある傾向」、すなわち、以下の二つの傾向——「君としての神」から「僕ら人類としての神」への神の在り方の変化と、「神」から「宗教」への神への視座そのものの変化——に基づいて変遷しているといえるのではないか、ということを論じた。「RADWIMPSとインテリジェント・デザイン論」の章では、彼らの楽曲に通底する神理解を「インテリジェント・デザイン論」をキーワードに考察し、インテリジェント・デザイン論的な発想が継続的に歌われていること、一方でそこでの神の位置づけ、世界との向き合い方に微妙な変奏が見られることなどを論じた。
 以上をとおして浮かび上がってくるのは、RADWIMPSが「神」を歌うことで問題としているのは、「僕」と「社会」の関係の在り方、すなわち「僕たちの社会」の可能性なのではないかということだ。


はじめに

 RADWIMPSの歌詞には「神」が多々登場する。1stアルバム『RADWIMPS』においてこそ「どうか神様あの大切な人を忘れさせて」(「さみしい僕」)というJ-POPの歌詞によくあるワンフレーズでしかなかったが、早くも2ndアルバム『RADWIMPS2~発展途上~』(以下、『RADWIMPS2』。)において複数の楽曲(「愛し」、「祈跡-in album version-」)で神が重要なメッセージを持つものとして出現すると、メジャーデビュー以降、その傾向は一層深まり、特に4rdアルバム『RADWIMPS4~おかずのごはん~』(以下、『RADWIMPS4』。)から7thアルバム『×と〇と罪と』の時期(00年代後半〜10年代半ば)において、神はしばしば楽曲の中心的テーマとして登場するようになる。
 一方で、彼らが歌う神は実にシンクレティックであり、一貫性があるわけではない。神道的、仏教的、キリスト教的な要素が雑多に見られ、神の理解の仕方についても日本的な理解(八百万の神様)と西洋的な理解(絶対的超越者としての神)が、そして場合によっては無神論が同居している。「来世につれてって」(「揶揄」)と仏教的転生が歌われたかと思えば「天国で報われるの」(「祈跡」)とキリスト教的な死生観が歌われるのであり、「おしゃかしゃま」(言うまでもなく御釈迦様をもじったものだ)において他でもないキリスト教的世界観が表現されているというチグハグさ(注1)が見られたりする。
 だが、そんな中でも、RADWIMPSの歌詞における神の現れ方を概観すると、そこに二つの特徴がぼんやりと存在するように思われる。一つは、マクロに捉えると彼らの楽曲における神の在り方が「ある傾向」に基づいて変容しているのではないか、ということである。すなわち、彼らの神理解が「あなたという神」というセカイ系(注2)的神から、「我々人類という神」というキリスト教的神へ、さらに、神への視線が「神学」的な描き方からいわば「宗教学」的な描き方へ、移り変わっているのではないかということである。変化のポイントは2点。①『RADWIMPS4』において神は「愛するあなた」の比喩として、「この世でたった一人の運命のあなた」とのアナロジーで描かれているのに対し、『アルトコロニーの定理』では神の傲慢で怠慢な性格が強調され、神が「僕ら人類」とのアナロジーにおいて捉えなおされている、②さらに『×と〇と罪と』に至ると、神学的な意味での神のみが登場していたRADWIMPSの世界に、社会学的な意味での神=「宗教」が出現している、という点である。簡単に図式化すると、以下のような変容が見られるのではないか、ということだ。

①「君」としての神⇒「僕ら人類」としての神
(『RADWIMPS4』⇒『アルトコロニーの定理』)
②「神学」的アプローチ⇒「宗教学」的アプローチ 
(『アルトコロニーの定理』⇒『×と〇と罪と』)

 二つ目は、神が「インテリジェント・デザイン論」(詳細は後述)的な発想でもって描かれているのではないかということである。これは1点目とは対照に、『RADWIMPS2』から『絶体絶命』に通底する特徴であり、RADWIMPSの神理解の中心的なものの一つであるといえる。ただし、留意しておきたいのは、インテリジェント・デザイン論はそれ自体として必ずしも神の存在証明に結びつくわけではなく、実際に彼らの楽曲においても必ずしも神が措定されているわけではないということである。RADWIMPSはインテリジェント・デザイン論の発想で世界の創造を描いているものの、必ずしもその世界の創造者=神ではなく、後に確認するように、この創造者をどう解するかによって彼らの世界への態度も微妙に異なっている。

 ということで、本論ではRADWIMPSの楽曲の歌詞に注目し、上の二つの観点からRADWIMPSが「神」をどう歌っているのかを明らかにしたい。すなわち、「RADWIMPSにおける神の系譜学」では、彼らの楽曲を時系列で追い、彼らの描く神の特徴にいかなる変化が生じているかを考察し、「RADWIMPSとインテリジェント・デザイン論」では、彼らの楽曲に通底する神理解を「インテリジェント・デザイン論」をキーワードに考察する。

 なお、本論に入る前に、分析手法的な点を1点補足しておきたい。本論はあくまで主題論(テマティスム)的なアプローチに依拠し、作家の思想・主張を俎上に載せることはせず、専ら作品それ自体(特に本論では楽曲の歌詞)に着目して批評を行う。ゆえに、RADWIMPSのメンバーがインタビューなどで語ったこと、野田洋次郎が「この楽曲にはこのような意図を込めた」と語っている、といった話を取り扱うことはしない。本論が追求するのはあくまで「歌詞」が何を表現しているかであり、歌詞において「神」がどう顕れているかを分析することでRADWIMPSにおける「神」の位相を明らかにすることを試みる。

RADWIMPSにおける神の系譜学

 本章では、上に挙げた第一の特徴に焦点を当てて検討する。つまり、マクロに捉えると、RADWIMPSの楽曲における神の在り方がある傾向に基づいて変容しているのではないか、ということである。以下、ざっくりとアルバム毎に神がいかに歌われているかを整理し、このディスコグラフィの変遷とともに神をめぐる理解がいかなる変容を遂げているかを浮かび上がらせたい。

「君」としての神——『RADWIMPS4~おかずとごはん~』

 『RADWIMPS4』では、アルバム全体を通して、いわばセカイ系的な「君」と「僕」の恋愛が歌われている。そこに社会という中間項は存在せず、代わりに恋愛が最も崇高な世界の中心であるかのように描かれている(注3)。「ます。」の象徴的なこれぞセカイ系的なフレーズを引いておこう。

あなた一人と 他全人類
どちらか一つ 救うとしたら
どっちだろかな? 迷わずYOU!!!!

RADWIMPS「ます。」

 神の描かれ方もこの全体的なテーマに呼応している。すなわち、「君」=恋愛相手がセカイ系的に描かれる中で、「君」がまるで神であるかのように歌われるのである。「me me she」の一節が示しているのは、「僕」を「創造」し「救済」してくれるのは、「神」ではなく「君」だということだ。

造ってくれたのは救ってくれたのは
きっとパパでも多分ママでも神様でもないと思うんだよ
残るはつまり ほらね君だった

RADWIMPS「me me she」

「造る」、「救う」という神を想起させる言葉遣いをしておきながら、神による創造を否定し、神の位置に「君」がいると歌う。「君」は神様のように絶対的で不可欠な僕の全てなのであり、神の冠は愛すべく「君」に戴かれている(注4)。
 『RADWIMPS4』において神が最も重要な意味を持つ楽曲は「有神論」をもじった楽曲タイトルを持つ「有心論」である。「有心論」でRADWIMPSは「君」が「地上で唯一出会える神様」だと高らかに歌う。

だって君は世界初の 肉眼で確認できる愛
地上で唯一出会える神様

RADWIMPS「有心論」

同時に、「君」=「神様」は「地球を丸くした」、「命に終わり作った」者として、すなわち世界をデザインする創造者として描かれる。

誰も端っこで泣かないようにと
君は地球を丸くしたんだろう?
だから君に会えないと 僕は隅っこを探して泣く泣く
誰も命無駄にしないようにと
君は命に終わり作ったよ
だから君がいないその時は 僕は息を止め待つ

RADWIMPS「有心論」

神の創造主的な特徴が強調される点は、次章で後述するようにRADWIMPSの神理解に通底する特徴であるが、ここでその創造はあくまで「僕にとって」何であるかしか描かれない。地球が丸く創造されたことに対し、ただ「僕は隅っこを探して泣く」のみであり、命が有限にデザインされたことに対し、「僕は息を止め待つ」だけである。地球の創造も、命のデザインも、世界・社会の成り立ちに関わるとてつもなく重大な出来事がまるで君と僕だけにとっての話であるかのように——セカイ系的に収斂している。君と僕だけがいるセカイ。社会という媒介項なしで展開される君と僕の物語。ここで神様は君の崇高性、唯一性、絶対性を表すべく、「君」のメタファーとして呈示されるのである。

「僕ら人類」としての神——『アルトコロニーの定理』

 『アルトコロニーの定理』において、RADWIMPSはセカイ系的な君と僕の物語から少しばかり距離を取る。「七ノ歌」で彼らはこう歌う。「Reality knocks on the door」——君と僕だけしかいない世界に、現実がノックする。それは、君と僕が不可避的に社会の中に生きていることを自覚するという『アルトコロニーの定理』のテーマを端的に表現する一節である。
 『アルトコロニーの定理』において神が大胆に歌われている楽曲は何といっても「おしゃかしゃま」である。RADWMIPSは「おしゃかしゃま」において「僕ら」が気付かぬ間に「神様」になっていると警笛を鳴らす。

僕らはいつでも神様に
願って拝んでてもいつしか
そうさ僕ら人類が神様に
気付いたらなってたの何様なのさ

RADWIMPS「おしゃかしゃま」

「有心論」も「おしゃかしゃま」も、神に何らかの人間的な投影がなされているという点は共通している。しかし、「有心論」においてその人間は個別具体的な「君」であったのに対し、「おしゃかしゃま」においてそれは「僕ら人類」という抽象的全体になっている。ここで「あなたとしての神」は「我々としての神」に変容しているのだ。
 この変化に呼応する形で、神は崇高なものというよりはむしろ傲慢で怠慢な存在として描かれるようになる。神は増えすぎたカラスや猿を減らす一方で自分勝手に人類を増やし続ける。神が急いで創り上げた世界は完ぺきとは程遠く、作っては壊しを、減らしたら増やしを繰り返す。

カラスが増えたから殺します
さらに猿が増えたから減らします
でもパンダは減ったから増やします
けど人類は増えても増やします

もしもこの僕が神様ならば 全てを決めてもいいなら
7日間で世界を作るような 真似はきっと僕はしないだろう
きっともっとちゃんと時間をかけて またきちっとした計画を立てて
だって焦って急いで作ったせいで
切って貼って 作って壊して
増やして減らして 減らしたら増やして

RADWIMPS「おしゃかしゃま」

「おしゃかしゃま」においてRADWIMPSは神を我々人類のメタファーとして呈示する。それは、この世界を司る神が愚かな我々人類のようにどうしようもない存在なのかもしれないという神義論的な問いを立ち上げると同時に、我々人類がまるで神であるかのような怠慢さでもって世界に君臨することに対して警笛を鳴らす。神はもはや崇高で愛すべき「君」ではない。神は傲慢で怠慢な「我々=人類」であり、我々に救いを与えてくれるような超越者ではない。

天国行ったって地獄だったってだからなんだっていうんだ
上じゃなくたって下じゃなくたって横にだって道はあんだ

RADWIMPS「おしゃかしゃま」

こうしてRADWIMPSは上(天国)か下(地獄)かという神学的救済ではない「横」への道を発見する。それは、大袈裟に言えば神を相対的に見る「社会」という視座である。こうして一度、RADWIMPSは神=「君」による救済を断念し、「セカイ」から「社会」への一歩を踏み出すことなるが、果たして彼らは「君なき社会」で生きる苦しみと困難に直面することとなる(注5)。

神から「宗教」へ——『×と〇と罪と』

 『アルトコロニーの定理』に次ぐアルバム『絶体絶命』も、基本的な神の位置づけは『アルトコロニーの定理』の延長線上にあると言ってよい。「狭心症」は彼らの楽曲で初めて神義論を正面から問題にした楽曲であるが、「おしゃかしゃま」同様、神の崇高性に代わり神の怠慢さが強調されている。

そりゃ色々忙しいとは思うけど
主よ雲の上で何をボケっと突っ立てるのさ
子のオイタ叱るのが務めなんでしょ

RADWIMPS「狭心症」

ただし、「DADA」では「『我々化』してしまった神」に対してその怠慢さ、傲慢さを論うという方向ではなく、そうした「神に縋っている我々」に対する非難が見られる。ここでは、「怠慢な神」ではなく「神に縋る我々」を問題化するという微妙なベクトルの変化が読み取れる。

生きてる間すべて遠回り すべて大回り なのにそれなのに
近道探してみて 小回り お巡りに見つからないようにばかり
あげくの果ては拝み 神頼み 少しでも楽に 他人よりも前に
叶わぬと知るや否や 嫌み ひがみ 鬼畜の極み 南無阿弥陀仏

RADWIMPS「DADA」

 閑話休題。さて、『絶体絶命』を経て、『×と◯と罪と』に至り、RADWIMPSは神をメタ的に、いわば宗教学的に捉えることとなる。ここで「宗教学的」とは、神に「信仰の外側」からアプローチする態度で、神の存在を所与とした上で「信仰の内側」からアプローチする「神学的」態度と区別して用いる。つまり、『×と〇と罪と』において、RADWIMPSは神の存在・信仰を所与のものとして神を描く立場から、神を信仰の外から一種メタ的/俯瞰的に描く立場へ変容しているのでる。
 この変容を明確に示している楽曲が「実況中継」である。同曲は「神様」(キリスト教的神)と「仏様」(仏教的神)の対立をコミカルに描いた楽曲であるが、ここでは複数の神(神様と仏様)が並立して存在している。一神教的であったRADWIMPSの世界に、複数の神が併存する。

まず解説です お迎えするのはそう神様です
御歳、今年2011歳 一切合切のこの世界を作りあげた大先輩
してやったり顔の万々歳 御苦労様です 御馳走様です 実況は私仏様です

RADWIMPS「実況中継」

これまで、神は「君」であって「我々人類」であった。その意味で、神は私から切り離された超越者ではなく、自分と切っては切り離せない不可分の存在であった。だが、「実況中継」では「神」の姿形が明確に描かれ、自分とは別の存在者として立ち現れる。

我々は彼らの遥か上空の彼方天空のさらに時空の先の
銀河のネット裏に実況席設けてますゆえに
今日も高みの見物とさぁさ皆で参りましょ

RADWIMPS「実況中継」

このように、神は「実況席」に胡座をかいて座る、我々から遠く離れた場所で我々を見下ろす存在へと変容しているのである(注6)。
 君と僕のセカイ系的物語をその只中から露悪的に断ち切った「五月の蝿」にもまた、宗教学的なものへの変容が見られる。

激動の果てにやっと辿り着いた僕にもできた絶対的な存在
こうやって人は生きてゆくんでしょ?生まれてはじめての宗教が君です

RADWIMPS「五月の蝿」

これまで「宗教」という言葉を使ってこなかった彼らが初めて「宗教」という言葉を使った箇所である。これまでの彼らであれば「神が君です」と歌っていたであろうところで、彼らは今「宗教が君です」と歌う。「神」という私に対峙する絶対的一者から、「宗教」という社会における現象としての神へ——言葉遣いの変容は神をめぐるこのような考え方の変容を示しているとは言えないだろうか。
 また、RADWIMPSはセカイ系的な神との訣別を果たすと同時に、セカイ系的な物語の複数性、すなわち「僕」だけがセカイ系的物語を持つのではなく他者もまた「僕」と同じようなセカイ系的物語を生きているのだ、という視座を得る。「五月の蝿」の「こうやって人は生きてゆくんでしょ?」という一節は、まさにそうした他者一般への開かれた態度を、個別具体的な「私」から普遍的な「人」への焦点の変化を示している。『×と〇と罪』と同時期に発表された「カイコ」にも、「五月の蝿」同様のセカイ系的物語の複数性への視座が見られる。

『すべての者に神は 等しく在らせるのだ』と
心の首もとに「ぎゅっと」手がまわる

RADWIMPS「カイコ」

神を信仰すること——それはもはや「僕」だけの問題ではなく「すべての者」=「人」一般の問題となる。この「僕」から「人」へのシフトに伴い、「神」は「宗教」=システムとして再定義される。
 『×と◯と罪』以降の動向については、ここで詳述することはしない。だが、神の複数性というテーゼは、「この世の神々が キミを僕のとこに送り込んだとしたら」(「告白」『人間開化』)、「もがき抗うその中で上がる火花を 遠い彼方 神々たちよ 眺めてればいい」(「海馬」『FOREVER DAZE』)といったように『×と〇と罪』以降の作品でも継続的に確認される。だが、他方で、RADWIMPSが主題歌を担当した『君の名は』、『天気の子』はセカイ系的な物語に他ならず、その意味では、『×と〇と罪と』以降、RADWIMPSはセカイ系への回帰を果たしているとも言えるかもしれない。

 さて、本章では、RADWIMPSの楽曲を時系列で追い、彼らの歌う「神」について、いかなる変化が見られるかを確認してきた。『RADWIMPS4』において「神」は君と僕のセカイ系的な物語の中で「君」の崇高性、唯一性、絶対性を表すメタファーとして呈示される一方、『アルトコロニーの定理』に至り「神」は我々人類のメタファーとして、すなわち怠慢で傲慢な存在として呈示されるようになる。また、『×と〇と罪と』になると、神はその内部からではなく、外部からメタ的に(=宗教学的に)捉えられるようになる。この過程で彼らは君と僕の「セカイ」から一歩を踏み出し、「社会」との出会いを果たす——。一方で、彼らの神理解にはディスコグラフィの変遷に関わらず共通している特徴がある。次章では、この共通の特徴を「インテリジェント・デザイン論」というキーワードから分析する。

RADWIMPSとインテリジェント・デザイン論

 本章では、「はじめに」で挙げた第二の特徴=神がインテリジェント・デザイン論的な発想でもって描かれているという点を検討する。これは第一の特徴とは対照に『RADWIMPS2』〜『絶体絶命』の作品に通底する特徴であり、RADWIMPSの神理解の中心的なものの一つである。ただし、先述したとおりインテリジェント・デザイン論は必ずしも神の存在を要請せず、実際にRADWIMPSにおける神の位置づけは楽曲によって微妙に差異が見られる。本章ではインテリジェント・デザイン論が継続的に歌われていることと併せてこの神の位置づけの差異にも注目し、この違いに伴いRADWMIPSの世界との向き合い方に微妙な変奏が見られることを明らかにする。
 RADWIMPSの楽曲の分析に入る前に、そもそもインテリジェント・デザイン論とは何かについて確認しておきたい。「インテリジェント・デザイン論」(以下、本章中では「ID論」。)とは、生物や宇宙の構造の複雑さや緻密さを根拠に、「知性ある何か」によって生命や宇宙の精妙なシステムが設計されたとする理論である(注7)。我々人類が今の姿であるのは何者かがデザインした結果であると考えるのであり、そこに何らかの目的・意志・意図を読み込もうとする。その意味で、世界をデザインした何者かは必ずしも「神」である必要はない。実際にカトリック教会は進化論以上にID論が神の存在を脅かしうると考え、ID論を受け入れていない。進化論においては原初の生命の誕生のフェーズで神が介在する余地が残されている一方、ID論はそのフェーズをも「知的な何者か」に置き換えてしまい神の出番の一切が損なわれている可能性があるのだ。ゆえに、ID論において神は必ずしも要請されるものではなく、単に「知的な何者か」の座を占め得るにすぎない。以上を踏まえた上で、以下、ID論的発想が歌われている楽曲に焦点を当て、そこでID論的な世界創造がいかに捉えられているかを考えたい。

「このようである」世界に生まれ落ちること——インテリジェント・デザイン論と被投性

 RADWIMPSにおけるID論の萌芽は早くも『RADWIMPS2』の「愛し」にみられる。同楽曲は言葉と心が一致していないゆえの苦しみを、ID論的な発想から歌い上げる。

言葉は いつもその人を映したがってた
神様は なぜこんなに近くに言葉を作ったの?
心は いつも言葉に隠れ黙ってた
神様は なぜこんなに深くに心を作ったの?

心と言葉が重なってたら 一つになったら
いくつの君への悲しい嘘が 優しい色になってたろう

RADWIMPS「愛し」

言葉と本心が一致していたら。言葉が本心を伴ってしか発せられ得ないものであったら。「僕」は「君」に「優しさ」を伝えることができたのに。しかし、我々の言葉と心は「そのようではない」。我々は簡単に嘘をつくことができるし、思ったことを言わないという選択を取ることができる。神は言葉を「近く」に、心を「深く」に作ったのだ(注8)。言葉と心をめぐるジレンマを神のデザインに責する発想は、『RADWIMPS3』収録の「トレモロ」においてもみられる。

本当に伝えたい思いだけはうまく伝わらないようにできてた
そのもどかしさに抱かれぬよう せめて僕は笑ってみせた

RADWIMPS「トレモロ」

ここでも、「愛し」同様に、問題は「僕」にある以上に、世界が「そのようである」こと、そのように創られたことにあるとされる。「トレモロ」では「愛し」以上に直截的に言葉と心の解離の「もどかしさ」が歌われているが、その苦しみはあくまで被投的なものとして——この世界に産み落とされてしまった「私」は否応なしに「このようである世界」を受け入れなければならないという心理でもって——「僕」の前に立ち現れるのである。

「このようである」世界をその手に取り戻すこと——インテリジェント・デザイン論と投企性

 さて、ここまで世界がID論的にデザインされたことによる苦しみにフォーカスしてきたが、RADWIMPSは世界がデザインされていることをもっぱら否定的に捉えているわけではない。以下、彼らの楽曲でID論的世界観が最も如実に表現されている「オーダーメイド」の歌詞を検討したい。

きっと僕は尋ねられたんだろう 生まれる前どこかの誰かに
「未来と過去どちらか一つを 見れるようにしてあげるからさ どっちがいい?」

RADWIMPS「オーダーメイド」

 「オーダーメイド」は、生を授かった「僕」が「何者か」に自身の身体のつくりをどのようにするかを問われ、自分自身でそれをオーダーメイドするという物語風に進行する。その「何者か」との問答の中で、我々が「このようであること」(例えば口が一つであり、心臓が一つであること)はもっぱら目的論的に語られる。曰く、口が一つなのは「僕が一人でケンカしないように 一人とだけキスができるように」であり、心臓が一つなのは「僕に大切な人ができてその子抱きしめるときはじめて 二つの鼓動がちゃんと胸の両側で鳴るのがわかるように」だというように。ここで語られる目的それ自体の内実は非科学的なロマンチシズムでしかないが、生命がかくあることに目的・意図を見出し、それをデザインする知性的な何者かの存在を措定しているという点において、まさにID論の思想と軌を一にしている。

続けて誰かさんは僕に言う
「腕も脚も口も耳も眼も 心臓もおっぱいも鼻の穴も
二つずつつけてあげるからね いいでしょう?」
だけど僕はお願いしたんだよ
「口は一つだけでいいです」と 僕が一人でケンカしないように

RADWIMPS「オーダーメイド」

 ここで歌われるID論的思想は、何者かの知性的存在といずれ生まれてくる私との間での対話において表現されているという意味で、必ずしも神の存在が前提とされるわけではない。この何者かが神であるかどうかは語られないし、選択肢はこの何者かに提示されるものの、最終的な決定権は私自身に存している。その意味では、私自身が世界をデザインする一翼を担っている可能性を示す、世界創造における私の能動的側面を強調する楽曲であると言える。
 それゆえ、「オーダーメイド」において「このようであること」=目が二つであり口と心臓が一つであることは、ポジティブに捉え直されることとなる。我々はこの身体が「このようであること」によって、優しく思いやりのある人として、素晴らしい人生を歩むことができるのである。「愛し」や「トレモロ」において歌われていた「世界がこのようである苦しみ」は、一転、「オーダーメイド」において「世界がこのようである喜び」となる。実のところ、「愛し」「トレモロ」「オーダーメイド」のいずれにおいても、「このようである」現実の内実に変わりはない。目が一つでも三つでもなく二つであること。言葉に本心をのせずに嘘をつけること。何者かが作り上げた世界が「このようである」こと——こうした我々の生きる社会的現実はそのまま承認されている。だが、「愛し」、「トレモロ」と「オーダーメイド」では、この世界にどう向き合うかに大きな違いがある。前者においては、「このようである」世界を否定的に捉え、「このようではない」世界を夢想していたのに対し、後者において「このようである」世界は肯定的に捉えられ、このようであるがゆえの世界の素晴らしさが語られるのである。
 この違いは、この世界をデザインした者を他者=コントロールできない存在と解するか、コントロール可能な主体=「僕」と捉えるかの違いに存している。「愛し」、「トレモロ」においてデザイナーは他者であるゆえ、この世界に「生まれ落ちてしまった」我々は、自身の生まれる前から「このようである」と定められた世界に生きなければならず、「被投(Geworfenheit)的」態度(注9)を取ることとなる。他方、「オーダーメイド」においてデザイナーは私自身である(あり得る)ゆえ、自身の希望の叶えられた身体とともにこの世界に生まれ落ちた我々は、この世界のデザインに能動的にコミットしているという意識を持ち、「投企(Entwurf)的」態度(注10)で世界に臨むことが可能になる。

 我々は例外なく「被投的」にこの世に生まれ落ちる。我々が生まれる前から既にこの世界は存在し、既に出来上がっている世界の中に望んでいないのにもかかわらず後から投げ込まれる。その意味で、「オーダーメイド」が示す「投企的」可能性は、反実仮想的な可能性でしかない。だが、当たり前にあるこの身体を、自明のものとしてではなく新たな目で見つめ直し、意味づけ直すことで、この世界に能動的に関わる可能性、この世界を自らの意志によって積極的に改革する可能性が拓かれる。ID論は言うまでもなく非科学的なものでしかないが、その一方で、その想像力は人々の生を積極的に捉え返す可能性を提供しうるという意味で、人々にとって意味のある考え方でもあり得る。「オーダーメイド」は、そうしたID論のある種功利的な可能性を示唆していると言えないだろうか。

結論に代えて

 本論では、RADWIMPSの楽曲の歌詞に注目して、彼らがいかに「神」を歌っているのかを確認してきた。以上から明らかになったのは、その変遷として、この世をセカイ系的に捉え「神」を崇高でかけがえのない「君」として歌うフェーズから、この世を不正や悪の溢れる碌でもない世界として捉え「神」を怠慢で傲慢な「僕ら人類」と同一視するフェーズへ、そして「神」をその信仰の内部から自身と不可分のものとして捉える神学的立場から、「神」をその信仰の外部から俯瞰的に捉える宗教学的立場へ、という二つの変化が見られるということであり、他方、通底する特徴として、世界の創造をインテリジェント・デザイン論的に捉える見方が存するということ、ここにおいて世界への態度は両義的に——一方で我々の生の被投的なあり方が、他方で我々が企投的態度で世界に臨む可能性が——歌われているということだ。
 だが、上の結論は、あくまで数多く存在するRADWIMPSの楽曲のうちの限られた楽曲に着目したものであり、その意味で、あくまで恣意的な一つの解釈にすぎない。本論で取り上げきれなかった「神」を歌った楽曲も多く、特に『人間開花』以降の楽曲をほとんど取り扱うことができていないのは単純に筆者の力量不足でしかない。もちろん、最近の楽曲では「神」を前面にフィーチャーした楽曲が少ないということが『人間開花』以降の楽曲を扱っていない一義的な理由であるが、部分的には、思い入れのある楽曲が『RADWIMPS2』~『アルトコロニーの定理』期の楽曲だという実に私的な側面があることも否めないということを正直に申し上げておく。また、歌詞以外の例えばミュージックビデオやアートワークの分析にも手を伸ばすことができなかった。「オーダーメイド」のミュージックビデオには、冒頭、Namcy Etcoffの"Survival of the Prettiest: The Science of Beauty"とDennis Altmanの"The Homosexualization of America"の2冊の本が映っており、ここから色々と考察を広げられそうだとも思ったが、背伸びをせずに本論はあくまで「歌詞」の分析に終始することとした。

 本論は、「神の系譜学」と銘打ってRADWIMPSの神理解の変遷を明らかにするとともに、そこに通底する特徴を「インテリジェント・デザイン論」というキーワードから考察した。両パートで明らかとなった各アルバム毎の特徴を交差させると、「君としての神」と「我々現存在の被投性」(『RADWIMPS2』~『RADWIMPS4』期)が、「僕ら人類としての神」と「我々現存在の投企的可能性」(『アルトコロニーの定理』期)が、それぞれ同時期に展開されている主張であることが分かる。
 「君としての神」は、それが「僕」が愛する目の前の「あなた」であるという意味で「僕」と不可分の存在であるが、一方、それはどこまで行っても他者であるゆえコントロール不可能な存在である。RADWIMPSにおいて「君としての神」は社会という中間項を無視した「君と僕」の物語と結びついていたが、ここで「君」という絶対者は「僕」に「このようである」世界を押し付ける。このように考えると、きわめて私的な「君と僕」の二者関係において既に、コントロール不可能な他者とともに生きるという「社会」の萌芽を見て取ることができる。究極、世界を思い通りにするには「僕」が神になるしかないが、それは「愛するあなた」を葬り去ること、「僕の生きる意味」を放棄することに他ならない。こうして「僕」は自分の生きる意味が他者との関わりに存するということの持つ意味を、生きるということがこの世界を引き受けなければならないという運命を受け入れることと不可分であることを認識する。
 だが、「僕」は一体なぜ「このようである」世界で生きなければならないのか。全ての「僕」はこの世界に生まれ落ちることを望まずに生を授かる。既に存在する秩序に放り込まれ、コントロール不可能な他者とともに生きることを余儀なくされる。ゆえに、「もし「僕」が神であったら」という想像力は、そんな被投的苦しみを克服する思弁的な可能性の一端であり得る。「僕」が世界のデザインの一端を担うこと、それはこの世界がどうしようもないものであることの責任の一端を担うことにもなるが、同時にこの世界を自らのものとして捉えなおすことに繋がり得る。こうして、自分の生を投企的に生きる可能性が拓かれる。それは一面的には「想像力」の問題であるが、時に「想像力」は現実における人々の振る舞いを変革する。
 このように考えると、結局のところ、RADWIMPSが「神」を歌うことで問題にしていることは、「僕」と「社会」の関係の在り方なのかもしれない。「僕」は「社会」の中で生きなければならないが、「社会」の中においてこそ生きる喜びを見つけることができる。「社会」は「僕」の存在以前に「このようである」し「僕」が死んでも存続するだろうが、それぞれの「僕」が「社会」に主体的にかかわっていくことで拓けてくる新しい「社会」の可能性がある。「神」を歌うことでRADWIMPSが示したかったことは、他でもない、そんな「僕たちの社会」の可能性だったのかもしれない。

脚注

(注1)御釈迦様=仏陀は神による世界の創造を否定するが、「おしゃかしゃま」における中心的なテーマは神による世界の創造である。
(注2)「セカイ系」とは、「日本のマンガ、アニメ、ライトノベルなどの物語構造における特定の傾向を指す言葉。具体的には、若い男女の恋愛関係を典型とする狭小な人間関係が世界の危機や終末を左右するといった極端なファンタジーに基づく物語構造のこと。」(アートスケープHPより(https://artscape.jp/artword/6187/#:~:text=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%80%81%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1%E3%80%81%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%8E%E3%83%99%E3%83%AB,%E5%9F%BA%E3%81%A5%E3%81%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%80%82))
(注3)例えば「ふたりごと(一生に一度のワープVer.)」の「俺が木星人で君が火星人だろうと…たかが隣の星だろ…一生で一度のワープをここで使うよ」、「me me she」の「約束したよね「100歳までよろしくね」」、「いいんですか?」の「「ありがとう」の勝ちはもう間違いない 必ずや到達するよ100万回」といったフレーズ。ここで君と僕は空間的・時間的な障壁を意に介さずに「愛という奇跡」で結ばれる。
(注4)君との出会いの「奇跡」が強調されていることも同様の観点から解することができる。君との出会いは神との出会いと見紛う奇跡なのであり、「奇跡だから」こそ「美し」くて「素敵な」のである(「ふたりごと(一生に一度のワープVer.)」)。
(注5)ちょうど『アルトコロニーの定理』のリリース後に発表されたシングル「マニフェスト」は、この「セカイ」と「社会」のジレンマを示唆しているように思われる。同楽曲は「総理大臣」という社会的存在を射程に入れつつも、そうした社会をも覆いつくすほどの「君」への愛を歌っている。
(注6)ここで「我々」と「彼ら」が対比的に描かれていることも上の議論を傍証する。ここで「我々」とは「神々」を指すのであり「人類」ではあり得ない。神から見て、我々人類は「彼ら」という神とは切り離された別の存在となっているのである。
(注7)Wikipedia「インテリジェント・デザイン」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3)より
(注8)だが、実際のところ、RADWIMPSの歌うように「心と言葉が重なって」いたら、「私」が「私」であることはできないように思われる。奥村隆が『他者という技法』において論じているように、「「こころ」が不透明であることが、「私」を可能にするとともに、「社会」を可能にもしている」のであり、心が透明であって言葉と本心が一致していたら、我々は「こころ」を自由に働かせることができなくなるだろう(奥村隆『他者といる技法』(p.274-275,277))。
(注9)「被投(Geworfenheit)」とは、マルティン・ハイデッガーの術語であり、我々現存在は望んでないのにこの世に産み落とされてしまったという意識、コントロールのきかない世界=「絶望の淵」に投げ込まれているという意識である。
(注10)「投企(Entwurf)」とは、同じくハイデッガーの術語で、現存在が自らにとってあれこれの可能性に向かい、自らを投げかけることである。しかし、「投企」は「被投」の制約を受ける。したがって、「現存在は、被投性と可能性の曖昧な闘争に制約されて存在することになる。」(Wikipedia「マルティン・ハイデッガー」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AC%E3%83%BC)より)

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