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祖母の話

祖母が他界した。
その葬儀が終わった。

家族葬を希望していたのでこじんまりと、本当に近い親族のみで終えた。

90歳を超えていたので、大往生なのではと思っている。
誰もが、立派に生きたね、と笑顔で話していた。

祖母の話を書き残すのにこのnoteがちょうど良いかもしれないと、年始頃から思っていた。
なのでまとまりなく書いていく。





祖母は和装を好み、また身の回りの布物はだいたい自分で作ってしまうような人だった。

息子である叔父は幼少期のセーターは全て手編みだったと言っていたし、
娘である母は、祖母はレース編み以外は全部やってたとよく話していた。

孫にあたる私も大人になるまでの浴衣や着物は全て祖母が仕立てた物を着たし、
成人式にも、祖母がずっと前に仕立てていたという晴れ着を着て出席した。

若い頃は和裁をメインに、歳をとってからは余り布を使ったパッチワークのポーチやラグなどをたくさん作っていたそうで
これも私がかなり幼い頃だけど、作品の個展みたいなものも一度やっていたし、ローカルテレビにも出ていた。

祖母の作品はどれも丁寧で、合わせる柄は華やかで
きっちり厳しいけれど派手好きな祖母の性格がよく出ているものが多かった。





現在アパレルでデザイナー職をしている私だけど、
元を辿ると、私の裁縫の始まりは祖母だった。

私が幼い頃に祖母の家に遊びに行くと、毎回何かしらを作っている途中だった。
針が危ないから、と縫っている姿はあまり見た覚えがない。

それでもたくさんの祖母の作品に囲まれて過ごすうち、自分も縫い物をしたいと祖母に言ったら
祖母は丁寧に針の扱い方から教え始め、フェルトで慣れない縫い物をする私を見守ってくれた。

フェルトの中に綿を詰めたマスコットキーホルダー的な物が初めて作った物な気がする。
初めての縫い物作品からオタクくさいな。変わらなすぎる。

確か学校でクラスメイト何人かに欲しいと言われまくり、しばらく大量生産していた記憶がある。
縫い続けるのが楽しくて、祖母の家に遊びに行っては黙々と作り続けていた。


数年経ってからコスプレにハマり、服作りの楽しさにも目覚め
そこから服飾学校に進学してなんやかんやで今に至るんだけど
あの頃祖母に見守られながら夢中で縫い物をしていた自分がずっと心に残っている。





成人式の日、祖母作の晴れ着を着た私を見た祖母は、
ずっと数年前の私の話をしていた。

祖母は私が成人する数年前から認知症が出始めていて
透析ですでに病院にも入っていた。

でも、私を見て「似合ってるね」と笑っていた。
「成人式だよ」「ばあばが作ってくれた着物だよ」と言ってもあまりわかってない様子なのは悲しかったけど、姿を見せられただけでも嬉しかった。

90歳を超える頃には誰のことも忘れていて
正直どんどん忘れて変わっていく祖母が怖かったし、
いつでもキリリと背筋よく着物を着て縫い物をしていた祖母が、
縫い物もできず、病院でパジャマで寝たきりの姿を見ているのはつらかった。

年始早々にもうそろそろかもしれないと連絡があり、
ちょうど帰省していたため家族で病院に会いに行った。

小さくなった手をこわごわ触ることぐらいしかできなかったけど
最後に顔を見ることができて本当に良かったと思う。

その後もって3日程か……と病院側に言われこちらも覚悟していたら
そこから2週間程モリモリご飯を食べていたらしいのはちょっと笑ったけど。
生命力の強い祖母らしいねと家族で話していた。





葬儀の翌日、祖母の家に向かった。

作っていた物がたくさんありすぎるから、欲しい物がある人は持っていけと母から言われたので。

部屋にたくさんある引き出しを開けていくと、出てくるわ出てくるわ
仕立てた着物、作ったポーチやバッグ、
そして作りかけの小物たちにたくさんの反物。

仕立てた着物は全てラベルが貼られていて、
母叔父叔母や孫の私たちの名前がたくさん書かれていた。

物になりかけ・なる前の布たちを見ていると、
祖母はこれ全部作るつもりだったんだよな、と。胸がぎゅっとなった。
たくさんのあったかもしれない未来がそこに詰まってた。



作りかけの小物と、柄がとても可愛く気に入ってしまった反物をいくつか持って帰ることにした。

続きを作りたいな、と思った。

ポーチ作るの地味にめんどくさくて、数えるほどしか作ったことないけど。
浴衣しか縫ったことないけど。
そんな雑に縫うな、と祖母に怒られそうな私だけど。

2人分の針が通った物も素敵だと思うから。

勝手な思いだけど、可能な限り引き継ぎたいなと思っている。

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