また、新しく

あけました、2024。

今年はとくにお正月気分を意識することはなく、いつも通りの日々の続きを生きています。休日は人であふれる吉祥寺も、今日ばかりはとっても静かだった。なんとなく落ち着かない気もするけれど、これくらいがちょうどいいな、

母からは、LINEのスタンプで新年のあいさつが送られてきた。帰省しないで過ごす、初めてのお正月。あまり説明はせず、なんとなく帰らない流れになってしまったので、両親がどう思っているのか気になる所だけど。連れ戻されることもなさそうなので、とりあえずは大丈夫そうかなあ。

2023年は、家族への気持ちが大きく変化した1年だった。年末年始をひとりで過ごすことになったのも、その意識の表れだと思う。

2020年の春、あるウイルスがはやり始めたころ、わたしは大学生になった。もともと、高校卒業と同時に家を出るつもりだったので、早々に引っ越しを済ませていた。けれど、パンデミックの混乱で、都心の封鎖も危惧されるような不穏な気配に負けて、引っ越して1か月足らずで実家へ戻ることになった。せっかく両親との涙の別れを乗り越えたのに、なんだか損した気持だった。

その時は大学が始まるまでの一時避難のつもりだったけれど、結局その年の冬まで、10か月を地元で過ごした。昼間は家でひとり大学の授業を受けて、夕方になるとアルバイトのために家を出る生活だった。意味が分からなかった。授業でも、ほとんど人と話す機会はなく、無理やり設けられる画面越しのブレイクアウトの時間はぎこちなくて、苦痛の時間ばかりだった。

そんな生活でいろんなことに限界を迎えて、わたしはまた地元を出ることにした。何も楽しくない名ばかりの大学生活で、アルバイトでは大人たちにいじめられるし、どうにかして生活を変えたかった。それで、そのとき一緒に働いていた戦友のようだった友人と、ふたりで東京に出ることにした。ほとんど、夜逃げだった(ぴっかぴかに晴れた昼間の話だけれど)。ふたりとも、それが許される環境があったことは、かろうじて残されていた希望だった。

そんなこんなで東京での(オンライン)大学生活が始まり、次の年からは少しずつ大学にも行けるようになったけれど、どこかずっと、つらかった。ひとよりも多くの授業をこなす学生生活、友人との付き合い方、家族と離れて暮らすさみしさへの折り合いのつけ方も、なにも上手に消化できなくて、こころが一つでは足りなかった。

そんなだから、大学生活の後半戦は、心の不調とむきあいながらやってきた。元気じゃなくても頑張らなくちゃいけなくて、助けを求めたってなにか変わるとも思えなくて、真剣に、必死に、崖のふちを歩いてきたように思う。いつ踏み外してもおかしくなかった。友達も、家族も、誰を頼っても苦しいばかりで、世界にだれも味方がいなくなった気持ちだった。今までで一番、最悪な心地だった。

でも、「世界にわたしはひとりだ」と、思えてよかったかもしれないとも思う。きっと、いずれ乗り越えることになるであろう絶望だった。わたしは頭のどこかで、親しい人(主に両親)の存在を手放せずにいたから。今になって消化不良で残った気持ちを、どうにかわかってほしくて、でも素直に伝えられないし、気づいてもくれないし、拗ねて勝手に悲しんでいた。これだから、わたしは自分の気持ちを持つことができなかった。“自分で選ぶ”ということが、どこまでも下手だった。

これからの人生は、わたしだけのものだ。そういう決意で、思い込みで、これからは歩いてゆく。もちろん、今までだってそうだったけど、その時々で目指すべき場所は決められていたし、選択肢はかなり限られていた。これが、まったくすべてを自分で選べるとなったとき、わたしは、自分の気持ちを自由に泳げるようになれるといい。わからなさをできるだけ克服して、じぶんの望むように、心地のよい環境にいられるようになりたい。もちろん、ままならないことはこれからもきっとあるけど、その練習はたくさんしてきたから、きっと大丈夫。ことしは、そういうことを、がんばってみようと思う。ことしも、よろしくおねがいします。

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