【短編小説】赤い月は見ていた 第一夜
第一夜 ラッパと挫折
「トランペットをお返しします」
まるで自身とは別人の鈍感な女を演じ、精一杯の明るい声で言う。
断ることが苦手だった。そこが弱点だと自分でもよく分かっている。
それでも明日、42回目の誕生日を迎える前にこうして肩の荷を降ろすことができた。自分の行動の後始末を自分で出来たのだから、もう上出来ではないか。
慣れないことをしたせいで酷く頭痛がしている。脳と連動しているのか疲れが眼にもきていた。終わってしまえば身体も心も楽になると踏んでいたからこれは想定外だった。
時計は九時半を回っていた。帰ったら直ぐにお風呂に入って洗濯もしないといけない。この時間の道は空いているけれど車で15分はかかる。息子はきっと今も私の帰宅を心配して待っているに違いない。なんとか十時までに家に着きたい。早く主婦に戻ろう。
挨拶もそこそこに足早にホールを出ると、農道の向こうの空に、赤い月が浮かんでいる。
月は知っていた。彼女が言いたかったことは、実はもうひとつあった。
「百恵ちゃんは私に歌わせてください」
歌い手は既に決まっているんだから、そんなことを言ってもしょうがない。だから言わなくて正解だった。
とはいえ飲み込んだ言葉は魚の骨のように喉の奥に引っかかったままで、この先も彼女の中に存在し違和感を残し続ける。
月は黙ってこちらを見ている。
何か言いたげなその表情に、ムッとして睨み返した。
「うるさい。諦めた訳じゃないから」
そう言ってドアを閉め、エンジンをかける。
不向きなことにいつまでも執着しているわけにはいかない。根性論の時代はとっくに終わったはずだ。それに、彼女には時間がなかった。
プレイリストをクリフォード・ブラウンからベニー・グッドマンに切り替える。マイクと金管楽器は置いても、まだ木管楽器が残っている。
そうだ、今日はノンアルじゃなくて微アルにしよう。コンビニに寄ったら十時過ぎるけど…ま、良いか。
続く(かも)
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