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【短編小説】幸せの結末


プロローグ

    きっと誰にでも、心から愛した人との大切な記憶がある。例えその結末が、幼い頃に読んでもらったお伽噺や、あるいは期待を裏切らないドラマのようなかたちをしていなかったとしても。
 
 ゆっくりと記憶のなかの川を遡る。出会った瞬間の感情を、今も鮮明に思い出すことができた。

 始まりは今から5年前、2018年の9月。当時勤めていた会社が運営する情報サイトで、全国各地のものづくりに関する記事を担当することになった。その最後の取材先として初めて訪れた福井県鯖江市。この地で生まれたひとつの短い恋物語の書き出しは、こうだ。

 あの日は雨が降っていた。

「午後からは雨の予報です。傘を持ってお出掛けください」

  テレビを消し、ホテルのベッドに寝転んで軽い溜め息をついた。窓の外に目を遣ると、今にも泣き出しそうな灰色の空が広がっている。早朝から始まる取材のスケジュールに合わせて前日入りしていた私は少し憂鬱だった。
「晴れ女だと思ってたんだけどな、私。一人で出張なんて機会、そうそう無いのに」
   慣れない湿度で普段より重く感じる身体を起こし、備え付けのインスタントコーヒーをお湯で溶いて飲み干す。簡単に身支度を済ませると、仕上げに麦わら帽子をぐっと被り河和田へと向かった。

   工房では既に作業が始まっている。年齢層は意外にも若く、中には女性の職人の姿もあった。木材を削る機械の音、漂う木の香り。こういう感覚的なことは、現場に行って肌で感じるのが一番だとつくづく思う。寸分の狂いが仕上がりに大きく影響するものづくりの世界、普段は味わうことのないピンと張り詰めた空気に背筋を伸ばす。
 
 河和田地区は漆器の産地として知られているが、ここ「Kioku」は漆を塗る前の木地そのものに商品価値を見出し、オリジナルの製品を製造・販売している。東京の直営店で事前に商品に触れていたものだから、それらが職人の手によって仕上がっていく過程を間近で見ることができるというのは感慨深いものがあった。

   担当者が来るまでにはまだ少し時間がある。邪魔にならないようにと壁際へ移動すると、私の背丈よりも大きな無垢板が並んで立て掛けられている。その中で、一枚の紫色の板が目に留まった。加工する前に染めているのだろうか。

「パープルハート。知ってる?」
後ろから声がして、慌てて振り返る。
「あ、はい。確か…映画ですよね。でも名前を知ってるだけで、観たことは無くて…」

そう返すと、彼は不思議そうな顔をしている。しまった。どうやら違ったらしい。

「この木の名前、パープルハート。着色したわけじゃなくて自然の色なんだ。といっても最初からこんな色はしていなくて…空気に触れて酸化して、紫に変わる」

   乾いた土に雨が染みこんでゆくような、深く、包み込まれるような声。開け放たれた戸の向こう側では静かに雨が降り始めていた。さっきまであれだけ響いていた機械音も消え、耳はさらさらと優しい雨音だけを拾っている。

   そこから先は彼が色々なことを教えてくれた。「Kioku」では伝統技術の継承と後継者の育成を企業理念としていること。だから一般的な分業というかたちではなく、全工程を同じ職人が手がけているということ。そんな考えに共感し、全国から毎年多くの若者が訪れるそうで彼もそのひとり、3年前に遠く徳島から移住してきたという。

「ちょうど今カードケースを作っているところだから、良かったら」

   繊細な仕事をする彼の指は長く、目立った傷も見当たらない。木と機械を扱う人の手がこんなにも綺麗だなんて知らなかった。併設のショップに並んでいた、あの精巧であたたかみのある商品を創り出す魔法の手。歳は私と同じか、少し上だろうか。その割に随分と落ち着いていて余裕さえも感じる。背が高くて、癖のある髪。丸い眼鏡はきっと鯖江メイドだろう。なんとなく誰かに似ているけど…そうだ、父の好きなジョン・レノン。そんなことをひとり思い巡らせていると、彼は手を止めて顔を上げた。

「その麦わら帽子。歌の歌詞から飛び出してきたみたいだ」

 私の父は東京で開業医をしている。そこで事務的な色々を手伝う母の姿を小さな頃から見ていた。兄と私のどちらかが医学部に進んでくれれば、という思惑はそれなりに察していたが、要領の良い兄は早々にリタイア宣言をしてしまった。両親は高校三年の夏が来るとさすがに諦めたのか
「あなたの好きにすれば良いよ」
と、うっかり口を滑らせてしまった。私は勉強が得意なほうではなかったし、華やかな業界への憧れもあってデザイン系専門学校へ通うことを決めた。その後運良く就職した小さな事務所では取材や撮影に走り回る日々を過ごしていた。当然不規則だったけれど、実家暮らしで生活の心配をする必要もなくそれなりに満足していた。そんな私が突然事務所を辞めて鯖江へ行くと言い出したのだから両親も寝耳に水、といった様子だった。

   ふたりの心配をよそに、私は彼の住む街で生活ができることに胸を高鳴らせていた。取材で知り合った現地カメラマンの紹介で、ほとんど歳の変わらない夫婦が営むデザイン事務所のアシスタント、という仕事も手に入れた。見知らぬ土地での慣れない一人暮らしに全く不安が無かったかと言うと嘘になる。それでもこの街に馴染むのに時間を要さなかったのは、出会った人たちがあたたかく、大きな器で受け入れてくれているように感じられたからだった。鯖江には2年半ほど住んだだけだったけれど、かけがえのないふるさとのように思っている。

 ふとしたときに鼻先を通り過ぎるにおいは、いつまでもあの頃の記憶を呼び起こす。

  6月、ホタルを見に行った河原の、湿った土のにおい。
  7月、アレックスシネマのレイトショーと甘いキャラメルのにおい。
  8月、髪に残った線香花火の煙のにおい。
  それから——涙腺を刺激するスパイスのにおいは、あの人のいた日常。

   彼は瓶に入った辛口のジンジャーエールを好んで飲んだ。部屋ではよくジャズや60年代の懐かしいレコードがかかっていて、ゆっくりと流れる時間の中、彼の作った木のカップにジンジャーエールを注ぎそっと口をつける。決まって私は咳き込んでしまう。そんなことで笑い合える日々が愛おしかった。

 本を読まない私と読書家の彼。流りに敏感な私と古いものを慈しむ彼。ひたむきに技術を磨き続ける彼と、好奇心の赴くまま歩いてきた私。ふたりは真逆の人間だったけれど、足りない部分を補うようにお互いを必要としていた。何よりその事実は私に大きな自信をくれた。

 彼が仕事をしている姿を見たのはたったの二回。一度目はここに住むきっかけになったわけだけれど、二度目が私たちのシナリオを大きく変えることになるとはその時は思ってもみなかった。

「今日の撮影はこのへんで。お疲れさま」
「お疲れさまでした。また明日、よろしくお願いします」
「あれ、雨だ。さっきまで降ってなかったのに。傘、持ってる?」
「はい、大丈夫です。今日はなんとなく降るような気がして、車に積んでありますから」
    いつも傘を持たずに雨に濡れてしまうのに、その日は珍しく傘を持ち歩いていた。靴が濡れないよう水溜まりを避けながら工房へと向かう。
   「せっかく近くまで来たんだし、ちょっとだけ。突然だから驚かせちゃうかな」
    そっと中を覗くと、すぐに彼を見つけることができた。少し伸びた髪を後ろでひとつに結び、丁寧に指で形を確認しながら木を削っている。そういえば仕事の話、ほとんど聞いたことがなかった。今、何を作っているんだろう。
    彼を見つめる私の視界の隅に、ひとりの女性が映り込んだ。彼女は確か——あの日見た職人さん。その目には、彼へ向けられた尊敬と憧れ、切なさと悲しみのような色が、パレットの上の絵の具のように混ざり合っている。彼女はまるで私だ。声を掛けてはいけない気がして静かにその場を後にした。
 
    あんなに降っていた雨が止んでいる。

    私の居ない世界で、あなたは近づけないほど眩しい人だった。私はこの世界で何ができるだろうか。本当にやりたかったことは、何。
 傘を閉じると雨粒が滑り落ち、足元でぽちゃんと音を立てる。水溜まりには不安定にゆらゆら揺れる私がいた。

「そろそろ東京に帰るね」

 ハッとする彼の表情にひとしずくの寂しさが混ざっているのを見逃さなかったけれど、引き返してしまいそうで気付かないふりをする。彼は普段と変わらない声で「わかった」と言って、それ以上何も訊いてはこなかった。
    いつもの部屋で、レコードだけが回り続けている。私たちがお互いを名前で呼び合わなかったのは、いつかこの日が来ることを知っていたからかもしれない。でも、本当の気持ちは——このまま、針が上がらなければいいのに——。そう願った途端、プツッと音を立てアームは元いた位置へと戻ってゆく。
    Beatlesの”Here,There,Everywhere"が私たちの最後の曲となった。

 最後の日も雨が降っていた。

「どうか、身体に気を付けて。元気で」
「うん。ありがとう。元気でね」
 彼の手から差し出された紙袋を受け取り、特急しらさぎに乗り込む。平日の車内は空いていて、窓側の席に座ると間もなく電車が動き出した。駅が遠ざかってゆく。イヤホンを耳につけpodcastをかけると、人気コラムニストが恋愛相談に答えている。車窓に切り取られた風景が流れるのをぼんやり眺めながら、3年前の今頃、東京駅を後にした日のことを思い出していた。心配そうに見送る父と母の顔。私はあの時、どんな未来を描いて鯖江行きの電車に乗っていたんだっけ。

   米原駅で乗り換えのアナウンスが流れる。膝の上に乗せっぱなしにしていた紙袋からようやく中身を取り出し、包みを開いた。紫色の万年筆だった。

   いつの間にか忘れてしまっていた。私は夢見がちな子どもで、いつも想像の世界で遊んでいた。彼はそんな私の空想を、素敵だと言ってくれる人だった。ひかりに乗り換えると身体の揺れが無くなっていることに気付く。トンネルを抜ける頃にはもう、はっきりと光が見えてきた。これからひとつの短編小説を書こう。

   いつかの立待地区での祭りで観た人形浄瑠璃を思い出す。近松門左衛門の「曽根崎心中」。結ばれることを許されず心中という道を選んだ徳兵衛とお初の悲恋。この話に影響され心中者が続いたという辛い事実を聞いた。作者は、本当は人々の悲しみに寄り添おうとしたはずだ。だったら、ふたりを解放することで悲しみを抱いて生きる誰かを救うことができるかもしれない。今の私ならあの結末を書き換えることができる。大切な人の未来を奪ったりするんじゃなくて、希望を見出だせるような恋の形を表現したい。彼が背中を押してくれた。

   この物語が彼の目に留まることがあったら、ふたりの話だと気づいてくれるだろうか。

 エピローグ

   9月とはいえまだ東京の日射しは強く、外出するには麦わら帽子が手放せない。蝉の声が窓を閉めていても聞こえてくる。

   氷を入れたグラスにゆっくりとジンジャーエールを注ぐ。檸檬の輪切りを浮かべ麦のストローを挿すと泡がのぼっては消えていく。あれから2年、辛口のジンジャーエールもむせることなく飲めるようになった。

「…しずく。雫はやっぱりこれが好きなんだな。同じものばかり飽きないで飲めるって才能だよ。ほら、そろそろ行かないと。映画始まっちゃうよ。」

   ペン先のインクを拭き、飲みかけのジンジャーエールをキッチンへと運ぶ。東京に戻った私は、出版社で編集者として働いている。休みの日には小説を書いていて、満足の行く形になるまでにはもう少し時間がかかりそうだ。でも、それでいい気がしてる。この話は急がずのんびり育てていくほうがいい。小さな苗木がゆっくりと、でも確実に、いつか大きな森になるように。

「ほんとだ、もうこんな時間。そうそうノゾミに聞いたんだけどね。映画館の隣にできたチョコレートショップ、帰りに寄ってもいい?木製品の会社が始めたお店で、木の型を使って成型してるって話題なの」
   そう言って立ち上がり、ラジオを消そうと伸ばした手が止まる。

「…お聴きいただいたのは The cascadesで Rhythm of the Rain. 邦題は”悲しき雨音”でした。
 気象庁によりますと、今年の東京は例年に比べ、雨が少なかったとのことです。これだけ晴れの日が続くと、雨が恋しくなりますね。降り始めのあのにおい、空気が一瞬で変わる感じ、結構好きです。みなさんは、雨にどんな記憶があるでしょうか。
それでは次の曲です。The Beatles, ”Here comes the sun”」

   ラジオを消し、麦わら帽子を被る。今、私の隣にいるのは、明るい太陽のような人だ。

   あの日以来私たちは一度も連絡をとっていない。彼が今何に情熱を傾けていて、隣に誰がいるのかもわからない。確かなことは、あのとき、あの街で、私たちは恋をしていた。そしてこれから先も同じ空の下で生きてゆく。
 住む場所や見える景色は変わっても、確かに変わらないものがある。大切な記憶の宝物を胸にそれぞれの道を歩いてゆく。これが私たちの選んだ幸せの結末。

   グラスについた水滴は誰かの代わりに泣いているようにも見える。ハンカチでそっと拭いてあげた。

   氷がカラン、と音を立てた。

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