自己紹介〜エピソードゼロ〜
自己紹介をしたい。
学費が払えず三流大学を中退し、
大阪でしがない会社員をやっていた。
商社の関連会社というか下請け。使いパシリ。地位のある親戚のコネで拾ってもらったので、中途採用ながら悪い給料ではなかった。
面接では「先生が可愛かったから」という理由でとった中国語の講義をアピールし、「中国語喋れます!」と嘘をついた。
入社後すぐに中国に飛ばされてしまったが、今では本当に喋れるようになったwww
もちろん中国駐在がメインでそれはそれはシンドく、折しも上海万博も重なって激務に次ぐ激務。海外だと頼る人もおらず休みはないに等しい。
辞めたい。
1年経った頃からずっと思っていた。今のようにヒドいウツ症状の日は、ストラテラ(アトモキセチン)を飲みながら身体にムチを打って仕事をした。
たまの休みは1日中ボーっとしていたから、給料もらっても使えない。現金を置いてても仕方ないと大阪にマンションを買い、本格的に駐在員となってからは同僚に貸していた。いま思えばこれが不動産投資のきっかけだ。
先見の明がある人なら、中国で不動産を買っていたことだろう。僕は金持ちになれんのだな、と悟った出来事。もし会社が借りていた北京のマンションを買い取っていたら、税金差っ引いても日本円で億の利益が出ていただろう。
たられば話のはもうやめよう。とりあえず前を向こう。
日本に戻って仕事をしていたとき、とうとう壊れた。ある日、突然だった。クマさんもビックリ。ベッドから起き上がれない。薬飲んでも効果なし。
医師には『乖離性健忘症』とか言われた気がする。その頃のことはまるで記憶にない。ストレスからくることもあると。
忘れっぽいのを短所だと思っていたが、これは長所でもある。辛い記憶を「忘れることができる」という才能だ。世間ではバカとも言ったりもするが。
うすうす感づいてはいたが、壊れたことで再確認した。やはり僕は出来損ないなんだと。生きる気力すら失っていた。
死のうと思って三日三晩あてもなく彷徨ったけど、どこで死んでも誰かに迷惑がかかると思って断念した。仕方なくロープを買ったが、首吊りも必ず誰かに迷惑が掛かる。
部屋で◯なれると大家さんにも迷惑が掛かる。大家さんとなった今はより実感できる。
そもそも自◯したら家族が、実務的にも精神的にも多大な迷惑を被る。そもそも単純に怖くてできなかった。自◯すら満足にできない出来損ない。
今思えば、この経験があって良かった。その後は何事も死ぬ気で頑張ろうと思えようになった。どうせ一回、死んだ身だ。やるならとことんまでやろうと思えるようになった。
この辺りのことはまた別の機会に。
そもそも楽しい仕事ではなかった。スーツもイヤ。革靴もイヤ。ネクタイなんて最悪。デスクワークもいらん人付き合いも、何もかもイヤだった。ストレスしかなかった。
社内で最激務と言われた中国に飛ばされたことに憤りを感じていたが、面接で嘘をついた罰でもある。それでも前を向いて一所懸命に仕事すれば、報われることもある。ボーナスは同僚の2倍もらっていたようだ。コネのチカラかもしれない。
今思えばある程度の裁量権があることが、一種の精神的な緩衝材となっていたように思う。しかるに裁量権のある激務は耐えられて、チョロい仕事でもシガラミだらけの日本で壊れたと。
何が辛いのか。
自分は何が嫌で何が心地よいのか。どう生きていきたいのか。ここでの反芻が後々、役に立つとは夢にも思わなかった。
とにかく出勤できない。
有給はあったが、当時はお世話になった会社で使う気にはなれなかったから、辞める選択肢以外になかった。
ただただボーっとする。
自堕落な生活を謳歌する。
楽だしそれなりに楽しい。
身体が良くなってくると、学生時代にハマったスロットやパチンコに通った。しかもマニュアル通りにやれば会社員と同じくらい儲かるのだ。ハマらないわけがない。
生活には困らない。貯金も増えていく。でも何か居心地が悪い。僕がダラダラ生きて、それがどうした。
このままダラダラ死んだように生きるのか、もう一度、就活して会社員に戻るか。自問自答と反芻の日々。流されるだけでは答えは出ない。
そんなとき、電話が鳴った。めったにない親父からの電話。「お袋になんかあったか⁉」と逡巡して手が止まり、すぐには出られなかった。
落ち着いて電話を掛け直すと、別になんてことない様子伺いと近況報告。しかし、話も終わろうかというとき、か細い声で親父が呟いた。
「なぁ、こっち帰ってこれんか」
親父はガンだと。お袋には言ってないと。お袋は足が悪い。車も運転できず買い物にも行けず、一人では生活できない。一人では生活できないくせに、施設には絶対に入らないと譲らない。親父の苦悩が思い浮かぶ。
産まれてからこれまで、親父から「こうしろ」と言われたことがない。何かを頼まれたこともない。放任主義で何も言わない。かと言ってピンチのときは助けてくれる。何も言わないながらずっと見守っていてくれた。
そんな人からの頼み。
自分の死期を悟って仕方なく、どうしようもなくなって初めて息子に頼みごとをしてきた。頑固で優しい人だった。
断れるわけがない。遺言にもなりうる。僕は電話を切ってすぐに、片道の航空チケットを予約して、地元に帰った。
地方の経済はそれこそ死んでいた。折しも円高で工場が海外に移転を進めていた時期。巨大なショッピングモールに商店街を潰され、利益は東京に吸い上げられる。
週休1日。手取り15万円。バイトの方が稼げるほどの低賃金。やってられん。
そもそも自分に何ができる。学歴も資格も技能もない。同級生はみな都会に出ている。
親父とお袋の病院のアレコレがあるから融通のきく仕事が良かったけど、そんな都合良くあるわけない。かと言って今更バイトもする気もない。パチンコやスロットで稼いでも何も身につかない。会社員が向いてないのは医師のお墨付きだ。
やっぱ落ちこぼれやん。
しかし気分は楽だから仕事がなくとも、なぜか前向きだったのを覚えている。仕方なく帰ってきただけなのに、親戚には「親のために偉いねー」とか言われてそれを否定しなかった。
誰かのために帰ってきたんだ、と自分に言い訳をしていた。自分の無能さを誤魔化していた。怪我の功名とでも言うのか、これも卑屈にならずに済んだ一因だ。
僕には何もない。
マヤさんも似たような状況だったけど、吟くんと團十郎と麻央さんがあった。イタ子の立場なら利用しても不自然ではない。
仕方がない。
仕事もコネも技能も夢もない。
しょせん同じ穴のムジナなんだ。
大阪のマンションを売ったりして現金を集め、競売で1棟マンションを買った。本格的な不動産投資の始まりだ。
大阪のマンションも1棟マンションも、仕方なく買っている。他に方法が思い浮かばず、ただ環境に適応しただけ。別に不労所得とかリタイアとか考えたこともない。己の性質と環境に合わせて、ただ泡沫のように流れただけだ。
そして故郷に舞い戻った。まさに鴨長明の『方丈記』。流れにまかせて故郷に辿り着いて、すったもんだする泡沫(うたかた)。ちっぽけな負け犬。僕はそんな大した人間じゃない。
親父は僕が帰って2年たたずに亡くなった。毎日、病院のハシゴしてた。親父、お袋、自分の病院をグルグル廻り、病院を間違えてばかりだった。
これだから発達障害は。
会社員のときは自分を責め続けた些細なミスの累々も、そのときは「(´>∀<`)ゝテヘッ」くらいに思えるようになっていた。
自分のバカさを認めて、逆に強くなった。雨降って地固まる、とでも言うのだろうか。
ちょうどお袋が入院してたときに亡くなったので、葬式やら何やらは僕が一人で全部しなければならない!と気合いを入れたのに、色んな方が助けてくれて実際は殆ど何もしなくて良かった。
遠路はるばるたくさんの方が弔問に訪れてくれて、亡くなってから親父の人徳を目の当たりにした。ちなみに、よく仏教の話をするくせに、家の宗派を知ったのもこのときだ。遅い遅い。
そう言えば、闘病中あまり頼みごとをせず怒ることもなかった親父に、唯一、怒られたことがある。
ずっと透析の懸念があった親父の病院食は、弥生時代かと勘違いするくらい質素で塩分もゼロに近い。味気ない食事に飽き飽きした親父は、「こっそりふりかけ持ってきてくれ」と、ガンになってから2度目の頼みごとを息子にした。
息子はやっぱり忘れてしまった。仕事だろうが末期ガン患者の最期の頼みだろうが、性質だから忘れるもんは忘れる。メモしても忘れる。
「何を考えてるんだ!」と末期ガン患者とは思えないような勢いで怒られた。(´>∀<`)ゝテヘッでは済まなかった。
すぐさま買いに走ったが、「ビンの大人のふりかけ」と指定されたのに、「プリキュアの絵が載ってる袋タイプ」を買ってやった。「売ってなかったから」と嘘をついた。ゴミの処理と恥ずかしさで困りやがれと。その頃の親父はもう、笑う元気すらなくなっていたけど。
いくら自由人とは言え、相手のいる予定を忘れてはならない。障害は関係ない。「リマインくん」という、LINEに予定を入れて時間になったら返信してくれる機能を活用しているが、それでも忘れることがある。リマインくんに入れるのを忘れることもある。
治らない。
だから障害と呼ばれる。
会社員を辞めてからは忘れないようにするのではなく、忘れても良いように環境を整えるようにしている。これも仕方なく。
何か大きなイベントが発生したとき、不動産賃貸業で良かったと心から思える。時間の融通がきく。物件が稼いでくれるので、専業の不動産投資家ってのは基本的にヒマだ。
世にはびこる殆どの不動産投資家が兼業なのは、不動産だけでは食っていけないから。使命があったり仕事が好きだったりもあるが、こちらは残念ながら少数派だ。みな仕事を辞めたくて不動産に手を出す。
金はなくはなかったが、病人2人を抱えていると、何があるか分からないからうかつには使えない。リフォームを丸投げすると利回りが下がるので、仕方なくDIYリフォームをやり出した。
税金対策のために仕方なく戸建てを買い、ヒマだからと仕方なくリフォームをした。
仕方なく、仕方なく。
仕方ないとは言っているが後ろ向きだったことは一度もなく、ただ環境に適応しただけ。仕方ない、じゃあこうしようってな具合に。
そうやって今に至る。
それを『孤独なDIYリフォーム』に綴る。これまでに得た経験知見を『ポンズケースケの観察日記』に綴る。
ヒマだからネット上で波風立ててしまった。もしかしたら津波が来るかもしれない。そのためにもnoteに綴る。ご協力お願い致します。
みなさん自腹を切ってまで、たくさんのサポートをして頂いた。本当に恐縮する。そんな方のためにも、こちらは垢BANされるわけにはいけない。
僕はすでに傷だらけだ。
傷が一つ二つ増えても問題ない。私財を投げうつ覚悟もある。しかしすでに一度、死んで蘇った。ただで死ぬつもりはない。
もし死んでも歩き続けてやる。ウォーキング・デッド〜エピソードゼロ〜だ。今までのように仕方なく、仕方なくと呟きながら歩き続けてやる。
ポンズケースケと申します。
どうぞよろしくお願い致します。
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ポンズケースケの考察日記
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