赤の他人への関心

これまで貧困や教育について精力的に学んできたつもりだ。学校教育の是非とか貧困政策とか。

全部飽きた。

知りもしない人の人生のために自分の人生を捧げるほどお人好しではない。結局どこかで他人事だった。貧困や教育について本気になっている自分は客観的に見て良い人だった。社会的に素晴らしいことをしているような気分だった。

外部からの強制的な課題から束の間ではあるが解放された今、自分のことについてよく考える。これまでのことについて何でこんなことをしていたのかと疑問に持つようになった。

どっかの誰かが貧困で苦しんでようが私は苦しくない。勉強をするのは試験があるから。それまではやる気にはならない。結局は当事者にならないとわからないのだ。

なんで自分の人生が安泰なのかも分からないのに、赤の他人の人生に心配できるのか。これから先学び続けてもいつか自分のことではないと思ってしまうのだろう。

ジェンダーについて興味を持ったのも、そのことについて悩んでいる友達ができたからだ。それまではなんとも思わなかった。だって赤の他人だから。

貧困<教育なのは中学生との接点があり、彼らは私にとって赤の他人ではないから。どうすれば彼らに勉強の楽しさや必要性をわかってもらえるのだろうかなどを考えることが出来る。

このようなことはちょくちょく考えていて、たまたま読んだ本に殺人について書いてあったことがこのnoteを書くきっかけになった。

貧困はいけないこと。殺人もいけないこと。いけないことは存在するからいけないことであって、存在しなければ話にもならない。いけないと思う人がいるなら、別にいいじゃんと思う人もいる。そんなことに対してぶつぶつ考えるのがアホらしくなった。

どこかで人が殺されて誰かが悲しむ。そんなことがあるから関係の無い私たちはその事をドラマや映画といった娯楽にすることができる。面白いドラマや映画、小説で殺人はしょっちゅうあること。赤の他人からすれば殺人は娯楽になり得る。

結局は他人事。これからは自分の周りだけを考えようと思う。その中でやっぱり思考を広げなきゃと思うならそうすればいい。

兎に角、私にとって関係ない人のことを考えるのはやめた。

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