コロナ・ショックを受けて考えるべきこと

新型コロナウイルスを巡る一連の騒動は、人間や国家、国際社会が持つ様々な性質を炙り出していると思う。一介の大学院生として、このような時にこそ考えるべきこと、特に多くの人々が見落としていそうなことを、このタイミングでまとめておくべきだと考えた。

端的に言えば、人命が脅かされている今現在感じている危機感・焦燥感を、目立つ人たち(政治家や公務員など)への憤りではなく、社会をどう変えていけばいいかという公共政策的思考に繋げていくべきだという話だ。

特に、危機対応時に直面する困難やジレンマから、平時の社会デザインの改善を模索することが重要である。

公衆衛生vs経済

ヨーロッパやアメリカで感染者の急増が続く中、日本ではクラスター対策や自粛要請による市民の行動変容などによって、感染拡大をある程度抑制することに成功している。一方で、現状は感染者の急拡大を押さえているに過ぎず、状況が改善しているわけではない。にもかかわらず国内で解禁ムードが広がりつつあることを危惧し、事実上の警告を発しているのが、上記の記事だ。

解禁ムードは単なる気の緩みなのだろうか

西浦先生が「解禁ムード」という言葉を使って現状を表しているが、「自粛疲れ」という言葉もしばしば見られる。

「一体何に疲れたというのか」という指摘はもっともだ。西浦先生が危惧するように、市民の自粛が不十分であれば過度の行動制限や都市封鎖といった事態に発展しかねず、それこそ経済に大打撃を及ぼす。

公衆衛生の歴史は基本的に「公衆衛生vs個人の権利vs国家主権」という構造で展開してきたという(公衆衛生専攻の友人談)。国内で言えば「公衆衛生vs個人の権利」というトレードオフの中でバランスを取らなければならないのに、一人ひとりの市民がエゴを捨てて協調的な行動を取れなければ、国家権力が個人の権利を侵害せざるを得なくなる。

しかし、自粛ムードの長期化か、それができないのであれば国家権力による行動制限を課せばいいというほど簡単な状況なのだろうか。封じ込めに失敗し、感染症対策が長期化を免れ得ない状況になった今、我々の目の前に立ちはだかっているのは「公衆衛生vs経済」というトレードオフではないだろうか

経済(家計のキャッシュフロー)は限界に近付いている。一斉休校によって給料が全額吹っ飛んだ小中高の非常勤講師が典型だが、消費の落ち込みは日銭を稼いで暮らしている人々の生活を直撃する。企業の業績予想が悪化し、20卒の学生の内定取り消しも起きているという。

一連の経済的損失に対処するための政府の臨時支出は56兆円、GDPの1割にのぼる。

自粛・行動制限が長期化するにつれ、経済的損失とそれをカバーするために必要な財政支出も拡大するだろう。感染症で人命がかかっているのだから経済は二の次だというのはもっともだが、経済対策が人々の生活を支えるために為されているという点を忘れてはならない。感染症そのものではなく失業や給与の減額に直面する人々を救うには、早期の終息がカギになる。

しかし、公衆衛生の観点からは感染の長期化は甘受せざるを得ない。同時に感染している人数が医療のキャパシティを超えないようにするには、瞬間的な感染拡大を抑制し、感染者数の山を平にする必要がある。その上で、免疫を持つ人の数が一定の水準を超え、実行再生産数が低下するのを待たなければならない。

早期終息と長期化、経済と公衆衛生のトレードオフの中でバランスを取るのが、緊急時の対応における問題だ。では、平時にどのような社会変革が必要だったのだろうか

経済レジリエンス

社会・経済が行動制限や国交断絶に耐えられないのは、国際分業体制の進展によるものだ。
極端な仮定として、一人ひとりが生活に必要なものを全て自給自足する経済を考えよう。そのような社会では、社会的距離を保ち、人と人の接触を完全に断ち切ったとしても、生活が立ち行かなくなる人はいない。
同じように、都道府県単位で自給自足が達成されていれば都道府県間の移動を制限しても経済は成り立つし、国家単位で自給自足が達成されていれば国交断絶は経済に影響しない。
第一次世界大戦時にヨーロッパ諸国の兵站基地となっていたアフリカでスペイン風邪が大流行したのも、分業体制によって人・モノの交流が活発だったからだ。
経済のグローバル化は、感染症に対する脆弱性を高める

お気づきのように、別にこれは新しい議論ではない。比較生産費説に基づいて食料自給率が低水準にある日本では古くから食料安全保障という問題が議論されてきたし、コーポレート・ガバナンス・コードは上場企業に事業におけるリスクの開示を求めている。

ただし、アメリカのダウ工業株を見ても日本のTOPIX30を見ても、IRで感染症リスクに言及していた企業は半数にとどまる。記述の厚さもまちまちだ。

財務指標として端的に表れる平時の営業成績は、経営・投資判断の指標になりやすかった。一方で、リスク管理を含む非財務指標を経営・投資判断に取り入れるべきだという問題提起も既に為されてきたはずだ。これを機に、どのようなリスク管理が有効に機能したのかを含め、自社のリスク管理体制を抜本的に見直すことが必要だ。場合によっては、平時の収益を多少損なってでもサプライチェーンの分散や在庫の積み増しをするべきだという結論になるかもしれない。国や投資家には、そのような経済レジリエンスを正しく評価する目が求められる

小規模飲食店をはじめとする、感染症による致命的な給与の減額に直面した人々への援助も、本来ならば政府による給付(公助)ではなく保険(共助)で賄うのが望ましい。不確実性による損害を全て政府が補填していたら財政が立ち行くはずもない。保険料を払えない事業者は”ビジネスとして失敗している”という認識のもと、市場から撤退してもらおう。これもまた、構造改革の一種としての経済レジリエンス強化策である。

緊急時の政策的舵取りとして、公衆衛生と経済のトレードオフに直面してしまうのはやむを得ない。重要なのは、危機後に平時の政策としてトレードオフを緩和する手を打てるかどうかだ。

政策課題としての「ウイルスばら撒き男」

多くの人が見落としているが、決して見落とすべきではない政策課題がある。実害こそそれほど拡大しなかったが、人々の反応やその裏にあるメンタリティが危険を孕んでいると感じざるを得なかった事件。

新型コロナウイルスに感染していることを知りながら「ウイルスをばらまいてやる」と言いながら飲食店を訪れたという事件が発生した。その後、この男性は亡くなったという。私が確認した範囲では、大手メディアによるこの男性の置かれた状況に関する詳細な報道はなかった。よって、以下の議論はこの事件そのものではなくそれに対する世間の反応を問題にしていることに留意して欲しい。

彼の凶行が倫理的に望ましくないことは言うまでもない(と仮定させて頂く)。言うまでもないし、議論するまでもないのだ。問題は、なぜそのような凶行に走る人間を社会が生んでしまったか、どうすればこのような凶行を未然に防ぐことができるか、だ。「どうしてこんなことをするのか…信じられない…」と嘆いて見せたって何の役にも立たないし、「逮捕しろ!」「罰をくだせ!」と叫んだってあなたの懲罰感情が満たされるだけだ。少なくと公共の電波を独占するテレビ局にそのような間抜けな態度は許されないのではないか。

昨年、『ジョーカー』という映画が話題になった。経済的格差社会的孤立が「失うものが何もない」危険因子を生み、巡り巡って既成秩序の破壊や中流以上の市民への加害を招き得ることに対して警鐘を鳴らした映画だ。少なくともそのように受容された。もっと控えめに言えば、そのように受容して絶賛していた人々は確かにいた。

彼らは今何をしているのだろう。映画を見て格差だ孤立だと騒いだ割には、実際に凶行に走る人間が出たらいち個人を叩いて終わってしまうのだろうか。もちろん、当該男性が「ジョーカー」とは異なり情状酌量の余地がなく、社会・経済政策によって未然に防ぐことが不可能だった可能性はある。しかし、その可能性を検証し、必要であれば保護的な社会・経済政策を提言するというメンタリティを、我々は『ジョーカー』から学んだのではなかったか。

 戦争は悲惨だ。
 しかし、その悲惨さは「持つ者が何かを失う」から悲惨なのであって、「何も持っていない」私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる。
 もちろん、戦時においては前線や銃後を問わず、死と隣り合わせではあるものの、それは国民のほぼすべてが同様である。国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブルである戦争状態と、一部の弱者だけが屈辱を味わう平和。そのどちらが弱者にとって望ましいかなど、考えるまでもない。

赤木智弘の「『丸山眞男』をひっぱたきたい」を引くまでもなく、社会は「生と死のギャンブル」を望む弱者を抱えている。幸い今はまだ踏みとどまっている人が多いのだろうが、資本主義社会が構造的に孕む格差の拡大を抑制できなければ、時間の問題だろう。

蒲郡の男性を批判していたキャスターが、ジョーカーに額を打ちぬかれた番組司会者と重なって見えたと言ったら、さすがに不謹慎だろうか。それでも私は、彼の命を守るためにも再分配のための経済政策と包摂のための社会政策が必用であることを主張したい。

社会は学習できるか

2018年の医学部不正入試問題は、多くの人の関心を呼んだ。大学入試という公正性が重んじられる場で、受験要綱に記載なく女性に不利な措置を講じたというのだから当然だ。アファーマティブアクションを進める世間と逆行している。

医大の不公正な措置は当然許されるものではないが、大学病院が入試における性平等と十分な医療労働力の確保のトレードオフに直面していたことは事実だ。女性医師の短時間(期間)勤務が医療現場の長時間労働を促進してしまうため、入試における差別は必要悪だという医療関係者の悲痛な叫びが散見された。
そもそも医大がそのようなトレードオフに直面したのは、医師会と厚労省が医学部定員を不合理に抑制したことによる。要するに医者の数が増えると一人当たりの取り分が減ってしまうから、既得権益を防衛しているのだ。
性差別がなぜ起きたのか、どうすれば防ぐことができたのかを国全体で議論することができたなら、民主的なプロセスを経て既得権益を奪い、入試における性平等、充分な医師供給、医師の労働環境改善を達成することができただろう。トレードオフを緩和する平時の政策が可能だったのだ

しかし、現実はそうはならなかった。不正入試は男性の差別意識の問題に還元され、文科省は不正を犯した大学の大学名を公表し、補助金を停止。人々の懲罰感情が満たされ、それで終わりだ。

社会は学習できるか。それが問われている。

新型コロナウイルスを巡る「緊急時の対応」を批評するのは簡単だ。公衆衛生と経済のトレードオフの構造があるため、どちらかにポジションを取れば簡単に批判が可能で、簡単に自分を賢そうに見せてることができる。しかし、完璧な対応などはあり得ないし、現状可能な解決策だってわからない。問題は、この経験をもとに平時にどのような政策を打つかだ。トレードオフを緩和する措置を、凶行を未然に防ぐ措置を。平時の社会デザインの改善こそが最も重要で、喫緊の課題なのである。

主権者であるということ

社会は学習できるか。それが問われている。

「政府は学習できるか」ではない

国の最高権力者は誰か。言わずもがな、主権者である国民である。我々には国の形を決める権利と責任がある。

緊急時に経済活動を停滞させないためには、経営・投資判断においてリスク考慮しなくてはならない。給与の減額に備えて貯金も必要だろう。保険に加入しても良い。政府の援助を期待するなら、臨時国債発行のための財政的余力を維持するために消費増税も甘受する必要がある。社会の安定のためには再分配政策が必用だから、労働所得税・資本所得税の動向にも目を光らせておこう。

全ては我々主権者の責任だ。しかるべき時にしかるべき対応を取れる政府を作るのだ。給与の減額に対して口を開けて現金給付を待ち、不平不満を述べるだけでは家畜と同じだ。我々は国に飼われているのではなく国を運営しているのだという意識を持ち、この機会に主権者としての自覚を新たにしようじゃないか。


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