小泉悠『現代ロシアの軍事戦略』(2021)


ロシアの「軍事戦略」に焦点を当てつつ、国際情勢への示唆も豊富。ウクライナ侵攻以前に書かれていることもあって、例によって「ロシア側の論理」を知るのに良い。

ハイブリッド戦争

現代ロシアの軍事戦略を語る上で鍵となるのが、「ハイブリッド戦争」という概念だ。クラウゼヴィッツが『戦争論』を記した19世紀のような国家対国家の軍事力による対決ではなく、「戦争目的」を達成するためにプロパガンダや民間組織などを利用する新たな形の戦争を指す。2005年に米海兵隊のマティスとホフマンが初めて提唱し、当時はイラクやアフガンなどのテロリストや「ならずもの国家」が念頭に置かれていた。
2014年のロシアによるクリミア併合は、西側諸国にハイブリッド戦争として理解された。侵攻前からロシア系メディアを通じて現地のロシア人の親露感情を育て、「ロシア軍が助けに来た」として現地住民に歓迎される土壌を作った。ドンバスでは紛争に発展したが、クリミア半島では覆面の特殊部隊がインフラ等の重要施設を制圧した後、武力行使を伴わない「無血併合」が達成されたのである。
ロシア側がこれを「自衛行為」と認識している点も見逃せない。クリミア併合の直接的契機は親露派政権がデモで打倒されたマイダン革命だが、ロシアはこのマイダン革命をNATOが仕掛けたハイブリッド戦争だと認識している。民主化を支援するNGOなどを通じて体制転換が図られたのであり、自国と旧ソ連諸国で権威主義的な体制を維持しようとするロシアに取ってみれば、武力行使を伴わない「攻撃」と変わらないのだ。この意味でのハイブリッド戦争には始点と終点が無いから、ロシアと民主主義陣営の間では「永続戦争」という緊張状態が続く。
2016年に起きたロシアゲートーロシアによるトランプ陣営の支援は、ロシアなりの意趣返しだと言える。

プーチンの市民社会論

プーチン大統領は「選出された権力者に幅広い権限を委譲する準備が出来ている」国家を「強い国家」と考え、市民社会が権力に対抗することに警戒する。市民社会の声を聞くことは大事だとしつつも、外国の世論操作の影響を受けやすい、つまりハイブリッド戦争のターゲットになりやすいのが市民社会であり、ミサイルの飛来に備えるのと同様に市民社会の反発に備える必要がある。
実際、プーチンは2016年空きに連邦国家親衛軍庁(FSVNG)を設立し、国内向けの治安維持(公安)の増強を行っている。国家親衛軍は「プーチンが恐れるものの象徴」だと言える。

エスカレーション抑止

ワルシャワ条約機構がヨーロッパ戦線の通常戦力でNATOを凌駕していた1980年代にはソ連が核兵器の先制不使用を宣言していたが、通常戦力でNATOに大きく劣る現代のロシアは核兵器の「使用」を視野に入れている。特に近年のロシアがNATOとの対立を見据えて研究を進めているのが「エスカレーション抑止」という考え方だ。伝統的な抑止(懲罰的抑止)が「先制攻撃を思いとどまらせることで実際に攻撃せずに目的を達成する」ことを前提としていたのに対して、エスカレーション抑止は核兵器を使用して相手に限定的な損害を与えることを予定している。具体的には、第一段階として仮想敵の人口希薄地域にデモンストレーション的な攻撃を行い、第二段階として戦略核を1発か2発発射する。その後は全面核戦争に発展して共倒れだから、それまでに相手に戦闘を中断させようという狙いだ。
なお、エスカレーション抑止によって大国の参戦を抑止しつつ、ウクライナなどの周辺国との戦闘では戦術核兵器を使用しながら戦う「地域的核抑止」という構想も準備されている。

雑感

ロシアはハイブリッド戦争を駆使してクリミア併合を達成したが、この8年間で「戦場の外での戦い」の技術を発展させたのはウクライナの側だったようだ。ゼレンスキーの情報戦略は見事に機能し、今や日本の国内世論までがロシアと全面対決する姿勢を固めつつある。
一方で、通常戦力の不足をエスカレーション抑止で補うロシアの核戦略も機能し、NATOの軍事的支援は限定的なものにならざるを得なくなっている。
プーチンが(仮に戦場で勝ったとしても)戦争目的を達成できないことはほぼ確定しているが、この戦争の結末が今後の世界の安全保障環境にどのような影響を与えるか、注視したい。

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