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自分に課した「呪い」を「祝い」へ変える





こんにちは。ポンサオです。
本日はちょっと深めの話を。





1ヶ月以上前になるが、
「祝祭の呪物展」というものに行っていた。



部族の伝統的な呪術・あるいは拷問の際に使われたもの
 

所有者が不慮の死を迎えたり、
覗いたら死ぬと言われるようないわく付きのもの




なかなか禍々しいもの達が展示されていた。





(何故か呪物たちの写真撮影はOKらしい)






その会場で見つけたとある文章に、
私は心打たれることになる。





『呪物を祝う』ということについてのエピソードパネルだ。



おばあちゃんのデスマスク仮面が展示されていたのだが、

最初に見た時はすごく優しそうなおばあちゃんの顔の仮面だった。



(※画像を撮り忘れていたのでイメージ絵を描いた)







おそらく亡くなったおばあちゃんの顔をかたどったものなのだろうな、とは理解したけども。



しかしこのパネルによると
おばあちゃんのデスマスクについて当初は



「目を合わせてはいけない」


「このデスマスクからたびたび視線を感じた」


「所有を嫌がった」


「様々な呪物を取り扱ってきた人も『これはキツイな』、と呟いた」




など、いかにも恐ろしい記述がある。





しかし展覧会で展示を続けるうち、
そのデスマスクの表情が柔らかくなって言ったとの事だ。



確かに私が見た時も、すごく優しい表情で安らかに眠っているような雰囲気だった。




そのエピソードがとても衝撃的で、
とても心に深い記憶として刻まれた気がする。


自分の琴線に触れた、様な感覚だった。


そのパネルの後半には

「『呪い』と『祝い』はとても近く、同時にどちらも『祈り』なのだと知る」


と記述があって、
展示物所有者の、その呪物への愛情に心を打たれた。



その後、全く別の事象であるが自分の身に
伏線を回収するような出来事が起きる事となった…





話は変わるが、わたしは1年間コーチングを受けている。


(それは今までくすぶって苦しく生きてきた自分を解放するために、そして純粋に自分の好きな事を見つけて天職を見つけたいために、という理由で)




そこでコーチと対話するうちに
自分へと課してきた、
「こうあるべき」や「当たり前」にすごく苦しんでいることに気付いていていった。




それらも必要だから課したのであって、
今までその場その場の環境に順応する為に学んで取り入れたものだから決して悪ではないのだけれど…



それでも今はそれが足枷になって、
本当の自分を出せずに生きれないフラストレーションとなっていた。

コーチはそれを、「自分へと課した呪い」だと表現してくれた。



本当は行きたくない…
本当はこうしたい…
本当は想いを伝えたい…




けどそれらをねじ込んで封印したのは自分自身であると。



本当はそれを解放して生きてもいいのに。



むしろそっちの方が楽に生きれることは知っている。
ありのままの自分を受け入れて理解してくれる環境や人間関係が築かれていく経験もしている。



そうやって自分の足枷を克服して、
人生がガラッと変わった友人を何人も見てきた。



と言っても恥ずかしがり屋だし臆病者の私は
いつまでも心の奥底で封印してしまっていた。



そしてそんな自分が無意識に嫌になっていく。



まるで自分で自分に呪いをかけているような状態だった。





それは呪物展で見た「呪い=恐怖、避けるべきもの」というレッテルや先入観を張られて、一方的に避けられてきた呪物達と似ている気がしていた。




禍々しがったおばあちゃんのデスマスクは
展示会で色んな人に認知され、そして存在がわかって貰えたことに安らぎを感じて優しくなっていた。




その原理と自分に起きている現象が、
すごく似ている気がしたのだ。

そうだ、表現すればいい。




呪物展のパネルに書いてあったように、
呪いと祝いは似ている。




自分に課した「呪い」を、表現して世に出せば
それは「祝い」へと変わる。





その事に気付き、
自分の中で渦巻いている自分の足枷をそのまま表現して絵を描いた。






【 保身の瞳  】



保身は悪では無い
保身する事で守れていたという愛が過去にはある


「お願いだから変わることを止めてくれ」


心の中の巨大な瞳は、
灰色の涙を流しながら
血走った目で訴えている


例えその先に予想と違った未来があったとしても。





このような作品を夢中で描いていたのである。



この作品を描いた時、
すごく涙が溢れていた。



解放された気分になったのだ。





もう保身は充分だ。


わたしは足枷の無いわたしで生きていこう。






そう考えが変わった時、
絵の中の涙は「苦しみの涙」ではなく、
「愛しさの涙」に解釈が変わっていったのだ。





この絵を描いたのが1ヶ月ほど前なのだが、

今ではかなりあらゆる場所で自分を表現することが出来ている。




本当の自分を出すことで、
離れる人は離れるのだろうが
一方では自分の事を好きになってくれる人は確実に増えてきていた。


「絵をたくさん見たい」
「私と話すだけですごく固定概念の枠が外れる」


と言って貰えることが増えた。




本当に有難い事である…





こうして文章で表現することも然り、
絵や身体表現、空間表現、語りなど
無限の手法で「自分の呪いを祝いに変える」行為は可能だと思う。
 


今思えば、だいぶ前にnoteに書いた記事、
「怒りをアートに」という記事もある意味祝いに変えた行為だったのかもしれない。






既存の価値観に囚われず、
自由に表現すること。




そしてどんなに禍々しいものであっても、
ありのままの自分の呪いに気付き、誰かに知ってもらうこと。


それが本当の心の解放なのかもしれない。


おばあちゃんのデスマスクが教えてくれたように。






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