見出し画像

浦島太郎が観た|バブル期の東京

バブルの余韻が残る日本に3年振りに本社のあったテキサス州の片田舎から日本に帰国した浦島太郎。

本社コンピュータ関連買付担当チーム

東京オフィスには、今まで中途採用ばかりだった会社に、私の居ない3年間で毎年新卒採用が数名ずつあり、一挙に後輩が増えていました。

7-11より北米では店舗数が多いと言われたRadio Shackの店舗数は、7,000店近くありました。そうすると初回注文は、最低でも15,000台は出ました。各店舗に展示用と在庫用に各1台という計算です。そうなるとメーカーからすると新製品のテスト市場として最高のチャンネルでした。

80年代当時私が配属されていたのは、パソコンや周辺機器の製品群。まさにパソコンという言葉が生まれ、ビルゲイツが、パソコンを一家に一台と標榜していた頃でした。今では一人に一台ですね。

当時BASIC言語のポケットコンピュータからノートパソコンに移行し始め、プリンターもドットマトリックスからレーザープリンターが出始めた頃でした。

数々のパソコンや周辺機器を日本メーカーのOEMで調達し、市場に積極的にチャレンジしていたTandy/Radio Shack。買付責任者の副社長がジョン•シャーリー。私がフォート・ワース本社に転勤した時には入れ違いで、ビル・ゲイツにヘッドハントされてマイクロソフト社長となって、シアトルに去った後でした。でもその彼が居たからこそ、当時のRadioShackは、TRS-80というパソコン製品ブランドを確立出来たと思います。

一般市場にレーザープリンターを世に送り出したのもTandy/Radio ShackでリコーのOEMでした。

世界初のモデム内蔵で爆発的に売れていたMicrosoft/ASCIIのソフトウェアと京セラのハードウェア開発のModel100も後継機種Model102と200を相次いで投入。

しかし、私が帰国して直ぐに初の3.5”FDD(フロッピーデイスク)内蔵のModel600ラップトップを送り出しましたが、これは大失敗に終わりました。時代はIBM互換機に移り始めていたからです。

当時日本メーカーにとって、RadioShackに採用されるのは、生きたマーケティングとして、最高の機会だったと思います。一方、家電製品群は、日本のヒット製品のローコスト版で北米市場では数が捌ける良い時代でした。何せ支払いもFOB-JapanでL/C at sightでメーカーにとっては在庫負担の心配も売上回収の不安もない条件でした。

取引の多いメーカーからは、北米に確か5ヶ所以上あったウエアハウスに技術者駐在員を送ってもらうシステムにまでなっていました。

そんな飛ぶ鳥も落とすほど購買、販売力のあったTandy/Radio Shackの買付部門であったA&A Japanには、日本中のメーカーが連日売り込みにも来られていました。こちらからも東京や大阪の本社だけでなく、全国各地にある工場に訪問し、開発部門や生産部門にも直接会ったり、生産ラインを見学して価格と品質バランスの理解に努めたりしていました。

私の技術に関する先生の多くは、メーカーの技術者の方々でした。好奇心旺盛というか何も知らない私が、何でも聞いていくと辛抱強く丁寧に色々と教えて頂いた記憶があります。

そんな時代でしたから、新卒社員でも有名メーカーの取締役レベルとも商談する機会が当たり前のようにありました。帰国後、そこに違和感を感じた記憶があります。会社の看板で仕事しているだけで、等身大の自分でビジネスをしていない錯覚に陥いる砂上の一角のイリュージョンの世界だという想いでした。謙虚にならないと大きな火傷すると戒める自分がいました。それを帰国後2年で転職し、Dellを立ち上げた時に痛切に実感する事になります。

本社転勤になった私の後に続けと若手独身者の本社出向が始まる幕開けにもなりました。新人後輩たちとも親しくなって、食事に行ったある夜に給料の話になりました。

後輩からは、本社転勤で戻った私の給与がドンドン上がらないと自分たちの基本給も上がらない。もっと貰ってくださいと言われ、ちなに手取り幾らもらっている?と聞いたら僕より多いではないですか!これには驚きました。

基本給も大して変わらなかったのですが、彼等の残業代は、毎月私の倍近くありました。そこには残業に対する姿勢が全く違っていました。しかし、Dellに転職しての給与交渉に後々苦労する自分がそこにも居ました。

トムクルーズ真似のジャケット

帰国後の最初の忘年会シーズン。
大手企業の接待は、料亭からの銀座で二次会。タクシー待ちの一時間は当たり前。タクシー券を頂きそのまま自宅のアパートまで。違和感というか座り心地の悪さも感じていたのも確かでした。

しっかりとしないと足元から掬われる危うい何かを感じていた20代後半のバブル終末期がそこにありました。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?