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祖父の本棚から波が。


 ひとは、どうして大事なことほど言わないのか。

 それなのに、どうでもいいことばかり。天気のことや、ドラマのこと。夕飯のことや、サッカーのこと。私の母も、そうだった。母は、いつもどうでもいいことばかりを話していた。主語がないから、子供たちからいつも注意されていた。そうして、肝心なことはなにひとつ言わずに、この世を去ってしまった。

 母の父、つまり私の祖父は、私の生まれる前に亡くなっていた。だから私は、祖父のことを何も知らない。ただ、国語の教師をしていたということくらいしか。生前母は、その祖父について、なにひとつ語らなかった。どんな人柄だったか、あるいはどんな人生を送ったのか。今となってはもう、残された一枚のモノクロ写真から、ただなんとなく想像するだけである。しかし、自分の家族、あるいはルーツについて話すことは、今朝のNHKドラマや、夕食の献立は肉か魚かと問うことよりも、よっぽど大事なんじゃないかと私は思う。

 その祖父の本棚を初めて見たのは、私が三十三歳のときだった。ひとり暮らしの祖母が亡くなり、ある日、空き家となったその家の整理へと行った。おもちゃのような小さな平屋の一番奥に、それはあった。背の低い飾り戸棚。扉を開けると、うっすらと埃やカビのにおいがした。残されたものは、多くはなかった。ニーチェやサルトルの哲学書、長野県の郷土資料、山下清の画集、いくつかの詩集。私は、ひとさし指で、その背表紙を順繰りに追った。高村光太郎、中原中也、室生犀星、それから、金子光晴。、、金子光晴。 おもむろに、その本を引き抜くと、ぱらぱらとページをめくった。それは、旺文社文庫の村野四郎編「金子光晴詩集」だった。ところどころに日付が書きこまれている。どうやら、それぞれの詩が発表された年月を、そのタイトルの下に記していたらしい。そのとき初めて私は、祖父の存在を身近に感じた。それも、奇妙なほど親しみを込めて。そうしてその本は、私のズボンの後ろポケットへと、そのままねじこまれる運命となった。
 

 私が金子光晴を知ったのは、それよりも八年ほど前、二十五歳のときだった。金子光晴と言えば、まず詩人として名高いが、もうひとつ、放浪者としての側面がある。彼の自伝三部作、「どくろ杯」「ねむれ巴里」「西ひがし」には、三千代夫人との約五年におよぶ、海外での放浪生活が書かれている。ひとり子を、日本へ置きざりにし。行く先々で、金策に明け暮れ。その壮絶な生き様が、美しい筆致で描かれている。つまり私はまず、その放浪者としての金子光晴から知ったのだ。そのわけを説明するのには、はじめに沢木耕太郎の「深夜特急」について話さなければならない。

 私は、今でもあのときの選択が正しかったのかどうかわからない。当時、美容室で働いていた私は、朝の九時に出勤すると、夜中の一時に帰宅した。月給は、十五万程度だった。社会保障もなかった。だが、当時はそれが当たり前だった。
 きっかけは、タイ旅行だった。それは、私にとっての初めての海外旅行だった。帰国後、私は空ばかりを見上げるようになった。そして、心はいつも、あのバンコクのシローム通りにあった。そこにはあの子が。それは、タイで会った女の子だった。そうして日常が、徐々に瓦解していった。なんという若さと無知。それは星の終わりに似ていた。つまり極限まで圧縮され、はじけ飛ぶ寸前だった。
 疲れた体をひきずり、夜中にアパートへ帰ると「深夜特急」を開いた。それは、唯一逃げこめる世界だった。目の前に広がる香港の廟街。こうこうと灯る屋台の電灯。むんとした人いきれ。ざわめき。やがて、窓の外が白み始めると、ようやく眠りへと落ちていった。
 それから数か月間は、ただ確認のための作業となった。大丈夫。大丈夫、と。周囲の大人へ相談すると、白い目で見られた。ますます、ひとりで考えこむようになった。やがてゆっくりと、日常から押し出されていった。客をシャンプーしながら、自分が何をしているのか、まったくわからなかった。会話もちぐはぐとなった。そうして夜中になると、また本を開き。次の日も。その、次の日も。そしてある日、私はそれまでの日々をナタでぶった切るようにして逃げ出し、そのまま飛行機に乗り込んだのだ。

 それは、期待や楽観からの旅ではなく、完全なる逃避だった。だから、後悔を伴っていた。しかしその染みは、どこまでいっても消えなかった。カオサンの裏通りで。ラオスの国境の山道で。様々な旅に関する本を読むようになった。それはきっと、自分を正当化するためだったのだろう。ロバート・ハリスの「エグザイルス・ギャング」、小林紀晴の「アジアン・ジャパニーズ」。その度に私は、ひどく彼らに憧れた。そして、どうして自分は彼じゃなかったのか、という錯乱した疑問さえ持つようになった。やがてその本の鎖は繋がり続け、いつしか金子光晴へとたどり着いた。

 だがその詩人は、憧れるにはあまりにも遠すぎた。そして、巨大すぎた。彼のように生きるには、修羅とならなければならなかった。あいにく、私にはそこまでの勇気がなかった。だからせめて彼の書いたものから、その濃密な臭気を嗅ぐよりほかなかった。
 それから私は、アジアをほっつき歩いたり、インドから東欧までジプシーを追いかけたり、オーストラリアやカナダに、ワーキングホリデーへ行った。よくひとから、なんのために? ときかれたが、目的なんて何もなかった。つまり、ただ青春を使い減らしていただけなのだ。もしかしたらそれは、自分の人生を置き去りにして、いったいどれだけ遠くまで行けるのかを、試していたのかもしれない。だがそれは、どこまで行ってもついてまわった。バックパックにはいつも、金子光晴の詩集が詰め込まれていた。それは、岩波文庫の「金子光晴詩集」だった。そのなかのひとつに、「くらげの唄」というのがある。その一節はその頃の私の背中を、いつも冷たい手でさすってくれた。

 僕? 僕とはね、
 からっぽのことなのさ。
 からっぽが波にゆられ、
 また、波にゆりかへされ。 
 
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 私はもう、どこにも行かない。

 飛行機にも乗らないし、バックパックも背負わない。その代わり、毎日判を押したように仕事へ向かう。総武線にゆられ。そして、昼休みになると、ディスクユニオンの袋から本を取り出して読み始める。

 旅が終わっても、本の鎖は繋がり続けた。いつしか興味は旅よりも、本そのものへと移り変わり、そのときどきでアイドルを出現させた。海外文学が多かった。ブコウスキー、セリーヌ、アレナス、シムノン、エリアーデ。いろんな作家が通り過ぎていった。だがそのなかでも、金子光晴は特別だった。それはまるで重しのように、読書体験の底流を押さえつけていた。

 その日、袋から取り出した本は、野坂昭如の「四畳半襖の下張り・裁判」だった。それは先日、母の新盆のために帰省し、久しぶりに祖父の本棚からひっぱり出してきたものだった。
 ただなんとなく持ち帰ったその本は、意外と面白かった。「わいせつ」を巡る裁判の話しだったが、そのなかで著者の野坂が臆面なく発する言葉が、そのときの時代と勢いを感じさせた。

 しかし、あるページにたどり着いたところで、私はそっと箸を置いた。そこには一箇所だけ、鉛筆で線が引かれていた。

「ぼくのもっとも尊敬する文学者は、金子光晴氏と石川淳氏である。」

 それは野坂自身の言葉であったが、線をひいたのは祖父だった。私は、ざっと巻末までページをたぐった。後ろの見返しには「S.51.8.22 花ヤ」とだけ書きこまれている。288ページにおよぶこの本のなかで、線が引かれていたのは、その部分だけだった。つまり祖父にとって、そこは忘れてはならない重要な箇所だったのだ。急に心音が駆けあがった。それは明らかに、金子光晴のことを指していた。なぜなら私はすでに、祖父の本棚で、あの文庫本を見つけていたからだ。

 じわじわと、波が迫っていた。眼前の麺は、汁を吸って伸びはじめていた。私は、この線を引いた祖父を想像した。いったい、どういう思いで。まさかのちに、顔も知らぬ孫がそれを見つけるとは、よもや想像もしなかったであろう。そしてその孫もまた、なんの因果か金子光晴を愛読しているとは。私は、時代を超えて、不思議な交点となったその一文へと、再び目を落とした。

「ぼくのもっとも尊敬する文学者は、金子光晴氏と石川淳氏である。」
 

そうしてひとり、思わずほくそえんだ。

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