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ソファのあそこは生活のへそ

久しぶりにきちんと掃除をした。といっても、風呂場と台所を軽くと部屋の床のみだったが。急によそのお家に行って「え…意外だ……」っていう体験をして以来、掃除は生きていく上で避けて通れないものだと思うようになった。極論、独り身ならゴミの中から「ちわっす!」でも良い。自分さえ恥をかけば良くて、せいぜい「親の顔が見てみたい」とか言われるくらいだから。

でも、結婚して子供がいるのなら、「〇〇先輩んちあんまり綺麗じゃないんですね…意外でした」とか「●●ちゃんのお家、髪の毛いっぱいだったよ」とか言わせたくない。それで嫌な思いをする夫や子供たちに申し訳が立たないし、本人たちの耳には入らなくても、どこかでそう噂されるだけでも嫌だろう。


いざ掃除すると、毎日気にならないのに意外と汚れている場所がある。ソファだ。私の掃除必需品である「コロコロ」でコロコロしていると、お菓子のカスやら毛玉やらお菓子のカスやらが結構ついてくる。これが私の、生活のカスなんだなとしみじみ思う。

そして、絶対に「コロコロ」の勢力が及ばない領域があることに気づく。あの「穴」だ。縦と横に縫い目が走るソファの場合、縫い目のないところはモコっとしてて縫い目の部分はキュッと引っ込んでる、あの感じ、伝わるだろうか。

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縦と横の縫い目が交差するところは、かなり深めの小さな穴になっている。ここだけはどうあがいても、「コロコロ」は届かない。何か細長いもので掘ってみるしか、その穴を綺麗にする方法はないのだ。

私は「穴」を、指でかっぽじってみた。すると指先に、何色かのカスがついてきた。大体は白っぽいのだが、黒や茶もある。ひとつひとつがとても小さく、なぜこんなところにこんなモノが詰まっているのだろうと不思議に思う。床のホコリとは訳が違って、なんとなく人体から出るものというか、垢っぽいのだ。汚い話でごめんなさい。


体から発する老廃物みたいなゴミを指先で集めていると、この感覚がアレに似ていることに気づいた。へその穴だ。小さい頃、母に触っちゃダメだよと何度も言われたけれど、どうしても気になったへその穴を、ついつい指でほじくってしまう時の、あの感触。

そして思った。このソファの穴も、へその穴と同じように触っちゃダメな場所なんじゃないかと。ダメなんて、決してそんなことはないけど、触らないでいる方が快適に心豊かに生活できるのではないかと思った。なぜなら、ソファの穴が汚くたって私はとても充実した毎日を送ることができたから。せいぜい指一本が届く程度の小さな汚れを気にしなくたって、私の周りの大きな存在たちが、両手いっぱいに余るほどの幸せをくれたのだから。

一体、必要な家事とは本当はどれくらいあるのだろう。掃除、洗濯、片付け、買い出し、料理、食器洗い、家計簿…ひとつひとつ上げていけばキリがない。

いつからか私は、そんな山ほどある家事に見切りをつけるようになった。「必要最低限、人間としての心のゆとりを持てるような家事」が出来れば良いのだと決めて、自分のやりたいことを最優先にするように意識している。

おそらく自分のやりたいことが見つかってから、つまり「書く」ということが人生のキーになってから、家事への意識が変わったのだと思う。

この記事を読んでくれている方、頑張らなくても良い家事を、やりすぎている人はいませんか? 来客にドン引きされるほど汚いのは流石に良くない けど、その「良くない」という感覚は人それぞれで、あなたの部屋が汚い認定されるか否かは、どんな来客が来るかっていうガチャにのみ委ねられています。 

だから大事なのは「ここが汚れているのはなーんか嫌だなぁ」という自分の感覚と、「好感とまでいかなくてもドン引きはされないように」と見えない他者の目を気にしてみることなんじゃないかな(どんなに辛いことがあってもファンの前では笑っているアイドルみたいな、全方位への完璧さはいらない。アイドルほど、他者の目=自分自身 になる人たちはいないよなって、すごく思う)。

結局、へそは放っておいても元気いっぱいな私である。一方で、今まで何度もへそを触ってしまったけれど元気いっぱいな私でもある。ソファのあそこも、それと同じだ。指でいじってもいじらなくても、楽しい生活を送れる私である。ソファのあそこは生活のへそなのだ。

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