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副志間高校3年A組【2.有村冴英】

ベランダの窓にかかるレース地のカーテンから、日の光が溢れる。ピピピピッと無機質な目覚まし時計の音。鳥がバサバサと飛び立つ音。いつもと変わらない朝、有村冴英は体を起こした。

寝癖のひどい髪をそのままに、バスルームに向かう。銀色の大きなシャワーヘッドから流れるやや熱めの湯が、まだ眠気の残る冴英をしっかりと目覚めさせる。

朝は元々あまり得意じゃない。頭の使う作業を深夜まで出来るタイプだったし、寝つきも良かった。ただ、就職してからはそうもいかなくなった。私の仕事は、早朝で寝起きだとしてもいつでも最高水準の判断力を使わねばならない。

トレーニングウェアに着替えて、ヨガをする。外でやれば気持ち良いだろうが、わざわざ公園に行くのが面倒だった。移動の手間を思えば、少しベランダの窓を開けて新鮮な空気を吸う方が、効率性に見合ったヨガの効果が得られる気がする。

そのままベランダに出て、本を読む。大体いつも、実家に山ほどあった推理小説か、仕事には直接関係のない学術書やビジネス書。仕事の勉強は帰宅後と決めている。朝の眩しさの中、風の強さに負けたページがめくられそうになる。

コーヒーと目玉焼き、焼いたライ麦パンで朝食を済ますと、冴英はパソコンの前に座る。NYダウ、ナスダック共に前日より下げ値、FTSE100とDAXもわずかに下げ値、上海もムンバイも下がってるけど、TOPIXは上がってるのか。さすがガラパゴス。

新聞のデジタル版トップには、米露の大統領が電話会談すると記されている。これでまた、流れは変わるだろう。

今日は午前中に1週間分のリサーチを行い、午後は外部コンサルが1件とチームミーティング。夜は史紀(ふみのり)とディナーだから、残業はそこそこにしないと。

史紀は歯科医で、冴英の恋人だ。出会ってかれこれ2年になる。郊外の大学勤務の彼と冴英は、忙しい合間を縫って平日の夜に会うことが多い。

Googleカレンダーを閉じ、鏡の前に立つ。いつもより濃くアイラインを引き、まつげはマスカラを二度づけした。平坦な顔が職場で浮かないよう、毎日メイクは気を配っているが、今日は特に重要だ。街明かりの中で、こっちを見て手を振る史紀が一瞬、思い出される。

グレーのパンツスーツにネイビーのヒール、手には本革のバッグ。その格好で家を出ると、石畳の道は通勤通学の人がちらほらと歩いている。鬱陶しいほど晴れ渡った朝だ。

地下鉄に乗っていると、見たことがある本を読んでいる人がいた。あれは、誰が読んでいただろう…冴英の脳裏に、懐かしい制服と教室が浮かんだ。そうか、茉里実だったのか。あの教室で休み時間に本を開くなんて、彼女しかいない。

大学は校舎近くのアパート暮らしだったが、こうして朝電車に乗るのは高校時代の日課だった。赤い2両編成に、学生がぎゅうぎゅう詰めだった。

私はもう、あの副志間には帰らないだろう。両親も都会に出てしまっている。その両親や教師達から期待をかけられて、副志間からこの地へたどり着いたような人生。何もかも、もう帰ることはない田舎に置いてきたと思う。

「Morning,Mr.Jones」「Morning,buddy.」颯爽と出勤した冴英に、同僚が近寄ってくる。

「暴落も間近かな?」「問題ないわ」「君が言うなら本当だな。それより、今日はデートかい?いつにも増して磨きがかかってるじゃないか」「あなたに関係ないわ」「やだなぁ、朝からツンケンしなくたって良いじゃないか」

私と教師以外は、誰も知らないだろう。大学入試の経歴書、本当は少し不正をして、中身を偽ったこと。「よその子はみんなやってるよ」今日の天気は曇りだね、と言うのと同じくらい何気なく、進学担当の教師がそう言ったのを今でも覚えている。

もしも当時同級生にバレていたら、皆はどう思っただろうか。2クラスしかないような田舎の子供は、ずるさに免疫がない。

冴英の顔を囲むように並んだデスクのモニターを4台、一つずつ電源をつけていると、スマホが鳴った。「○○2期決まったよ〜」桃花が暢気にアニメの話をしている。

この先、日本に戻ることがあっても、みんなと私の「時の流れ方」は違うのだろうな。でもそれは私の望んだこと。

慌ただしい一日の始まりに、故国の人々を思って少しだけ悦に入りつつ、冴英はおびただしい量の数字に視線を戻した。

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