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【短編小説】傷ついた「憎悪」

 優秀な画家がいた。彼の作品は常に世間から注目されて、今回の新作は五億、前回は二億六千万、とニュースをにぎわせていた。しかしある時、画家は世間に対して不信感をあらわにしてしまい、大っぴらに作品を作ることがなくなった。
「世間からの評判が信じられなくなってしまって」と、禿頭の老人が頭をかいた。散らかっているアトリエにはスケッチブックがこれでもかと山積みになった上にパレットが置かれていて、絵の具は規則的に絞り出されているなんてことはなく、赤も青も黄色も好き勝手に散らかっている。
「確か、『憎悪』という抽象画を発表した辺りからでしたよね。先生が人間不信になったのは」
 雑誌記者が確認すると、画家は深くうなづいた。
「憎悪」はこの画家が制作した抽象画である。もともとこの「憎悪」は「感情抽象画」シリーズの連作となっているうちの一つで、先に発表された「歓喜」と「悲哀」には億超えの値がついた。
「一体、何があったのですか?」
 記者はアトリエの奥に見える「憎悪」の絵に目をやった。赤黒く塗られた巨大なキャンバス。荒々しい筆致が躍動感をそのままに残しており、左端についた傷が特に評価を受けている。分厚く塗られた油絵具の断面が、その傷から様々な色を見せる。
「もともと他人の評価というものに懐疑的でね、感情抽象画のシリーズを描いたらどうなるかを試してみたんだ」
「先生は静物画が有名ですが、感情抽象画も高い評価を受けていましたね」
「割と何も考えずに、適当に絵の具を飛び散らせるのは楽しかったけれど……憎悪の評価を受けたときに、その不信感が完全な形になってしまったのさ」
「どうしてですか?」
 画家は、「憎悪」の傷を示した。
「みんな、これを評価していたね」
「ええ。盛った絵の具を削って何かを表現する技法はありましたが、ここまで大胆なものはなかなかないと」
 芸術ドキュメンタリー番組が「憎悪」を取り上げるとき、必ずこの傷だけで十五分以上は枠を取る。そのくらいにこの傷の表現は世の中で高い評価を受けていた。大胆な傷。明らかに痛みだとわかる一本の線を……。
 記者も「憎悪」の傷を、本物の傷を目の当たりにしたとき足の裏から強烈なエネルギーが立ち上るのを感じたくらいだ。ある批評家は「先生は『憎悪』を完成させたときに、本物の憎悪を感じていたのでしょうね。それが、この傷に現れています」と噛みしめながら言った。また別の批評家は「『憎悪』に傷をつけるとき、先生はわざわざナイフか何か鋭いモノを持ってきたのでしょう。ペインティングナイフの鋭さではありませんから」と湿った息を吐きながら、興奮気味に語っていた。
「先生は、どうしてこんなに大胆な傷をつけたのですか?」
 雑誌記者が問いかけた。
「そりゃあ大胆にもなるよ」画家は乾いた声で笑った。
「これ、アトリエから出すときに、戸棚の角にこすりつけちゃってできた傷なんだもん」
 記者が目をぱちくりさせた。彼が何かを言う前に、画家はこう続けた。
「もう展示会まで時間がなかったから、まぁいいやって出したらさ。みんな傷をほめるんだよ。怪我の功名と言えば聞こえはいいけど、なんだかなぁって思うでしょ? 僕がキャンバスに向き合っていた何時間よりも、うっかりミスの数秒間が評価されたとき、他の作品の評価も似たようなものなのかなって思っちゃって……」

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)