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【短編小説】消毒液を噛んだ

 優しさというのは消毒液によく似ていると思う。例えば子供の僕がすりむいて怪我をしたとき、母は常に僕の擦り傷を清潔な水ですすぎ、そこに消毒液を塗ってから、絆創膏を貼り付けてくれた。優しさというものにもそういった側面があるのではないか、と僕は思う。優しさは傷ついた心に良くも悪くも染みるのだ。僕はズタズタに傷ついたとき、誰かの優しさに触れるのが恐ろしかった。「大丈夫?」と言い聞かせられながら頭を撫でられたとき、僕はより惨めな気持ちになるのであった。だが同時に、僕はその優しさに深い安堵と感謝を覚えるのだ。
 特に僕は、何かに傷ついたということを隠したがる性格であった。これも僕が人の優しさに対して怯えていた証拠になるかもしれぬ。僕は僕の所属する集団――分かりやすく言えば家族や学校の友人たち、SNS、文芸同人のコミュニティなどなど――の外に傷を見せるのが嫌だった。文芸の同士に作品を貶された話を学校の友人たちにするとか、兄にこっぴどく叩かれたことをSNSに記載するとか、そういったことを一切しなかった。僕の友人たちはSNSに「妹に引っかかれた」と書くことを厭わなかったし、「俺の絵をアイツは悪く言ったのだ」と僕に告げることについてなんの抵抗もないようであった。彼らは彼らの集団そのものを心の底から信用し、傷口に染みる薬の痛みに耐えられるのである。しかし僕にはその強さがなかったし、僕の傷を知った友人が同じように傷ついたら僕は本当にダメになってしまうという自覚があった。

 どうにもならない傷を隠して、何事もないように振る舞うのは、えらく骨の折れることだった。こんなことがあった。僕は大学の文芸研究サークルでとある詩人に関する解釈を語ったのだが、部員の一人がそれを丁寧に貶したのだ。それだけなら耐えられるのだが、調子に乗った彼は僕への個人攻撃をここぞとばかりに繰り出した。曰く、僕の文芸に対する姿勢には、僕の私生活に対する杜撰さの言い訳そのもので、それは高尚な芸術として文芸を完成させた先人たちの偉業に泥を塗る行為に他ならない、と。
 僕は憤慨して「そんなものは君の思い込みだ」と反論したが、こんな陳腐な言い争いはサークルの誰も望んでいなかった。皆が僕を見た。僕が口を閉ざせばここは丸く収まるのだ、と言わんばかりに僕を見た。
 僕はその視線による暴力でもみくちゃになって、自分の文芸に対する姿勢というものが正しいかどうなのか分からなくなってしまった。僕はその日の活動中、風に揺れるカーテンをずっと見ていた。カーテンはカーテンの意思に関係なく、部屋の中へと身を投げ出したり、薄汚れた桟に裾をこすりつけたりしていた。
 夏休み前日のことである。

 その日の夕飯は実家で摂り、一日泊まっていくことになっていた。僕の実家はアパートからそんなに離れていなかったので、母に呼ばれてもバイトがない日であればすぐに駆けつけることができた。僕は先ほどの出来事があったので、急遽バイトに行かねばならぬと嘘をつこうかと思ったが、そういった嘘は後々己の首を絞めるということを嫌というほど理解していた。僕は実家に行き、何食わぬ顔をして食卓についた。味のしない生姜焼きをキャベツの千切りと一緒に飲み込んだ。母はいつも通りに色々な料理を僕に提供した。きんぴらごぼうは僕の好物であったが、僕はどさくさに紛れてあまり手をつけずに箸を置いた。僕は無事に傷を隠せたと思ったのだ。
 だから翌日の朝、僕がまだ微睡む中、既に朝食の準備のために台所に立っていた母が「リュウヤ、食べなくなったねぇ」と寂しげに父へ話しかけるのを聞いたとき、僕は本当に、本当に息が止まるかと思った。この時の母は、僕の心から血のにおいが漂ってくることに気付いていたのだと思う。僕は己の拙い技術で傷を隠した気になって、母に心配をかけまいとしていた。しかしそれは徒労だった。もしくは正しい振る舞い方ができなくなっていたかのどちらかだ。
 母は僕の器に盛る食事の量をさりげなく減らしていた。僕はその日、余ったきんぴらごぼうを全てタッパーにつめてもらってアパートへと戻ったのだが、鍵をかけた瞬間子供のように泣いてしまった。二十歳を過ぎた大人がいいザマである。
 しかしここには僕の傷に指を捻じ込んで笑う輩もいないし、僕の頭を撫でて「大丈夫」と微笑みかけてくれる者もいない。僕は僕の痛みを僕の中で完結することができる。僕はしばらくバカみたいに泣いていたが、不意にきんぴらごぼうのことを思い出した。早く冷蔵庫にしまわなければと思いつつも、僕の体は悲しみに固定されて上手く動かせなかった。
 僕はタッパーを開けて、きんぴらごぼうを指でつまんだ。そうしてそれを口の中へと放り込むと、奥歯に伝わるごぼうの感触が、「大丈夫」という言葉の響きに似ているような気がした。

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)