見出し画像

【短編小説】清く澄んだ水底にて

 飼っていた金魚が全滅した。飼い始めてから僅か一週間後のことだった。友人がインスタグラムで金魚の動画を上げているのを見て、自分も飼ってみたくなった――という短絡的な理由からの行動だったので、私は素直に反省した。
 初心者なので大人しく三匹から始めた。私は綺麗好きなので一日三回水槽を洗っていたのだが、初日に一匹を排水口に流してしまった。一匹は四日前に掃除中に死んでいた。洗面器の中で腹を上にして浮いていたのだ。そして最後の一匹は今日、まるで初日にここを去った仲間を追うようにして排水口に吸いこまれていった。私の元から逃げるようにも見えた。
 私は空っぽの水槽を持て余して、これをなんとか上手く活用できないかと考えたが何一つとしてよいアイディアは思い浮かばなかった。友人の家に直接金魚を見に行けばもう一度飼う気になるだろうかと思い、彼女に話をした。金魚友達が増えるのが嬉しかったらしい彼女は私のこと申し出を快諾してくれて、週末に会うことになった。
 今思えばこれが間違いだったと思う。
 彼女のアパートを一言で表現すれば、水底のヘドロだった。パッと見ると片付いているように見えるものの、シンクのボウルには食器が沈んでおり、棚の一部には薄く埃が積もっていた。テーブルの上にはペットボトルが三本あり、うち一つは中身が残っていた。
「これがうちの子だよ」と言って金魚を紹介されても、私はそれどころではなかった。友人のだらしなさに悲鳴を上げて今すぐこの場を立ち去りたかった。見ると金魚の水槽も薄汚れて見える。金魚はそんなもの知らないと言わんばかりに泳いでいるが、私がここの金魚だったら腹を水面に晒しているだろう。
「最後に水槽を洗ったのはいつ?」
 私の問いに、友人は悪びれる様子もなく答えた。
「一週間前かな。私は二週間に一回は洗うようにしてるから」
 卒倒しそうだった。
「毎日水を替えたりして洗わなくていいの?」と問いかけたら、友人は「毎日!?」と言って笑った。
「ないない! そんなに頻繁に水を替えたら、この子たちにとっても負担になるの。せいぜいスポンジで擦るくらいの掃除ならちょいちょいやるけどね」
 友人の口調は、私が「毎日水槽を洗うのは大変そう」と思っているという勘違いから来ていると私にはすぐに分かった。それと同時に、金魚――というより、ここに住む生き物はすべて私に相応しくないと分かった。私は恨めしい気持ちで空のペットボトルを睨んだ。
 友人とは疎遠になった。埃の存在する部屋で、きたない水槽に魚を閉じ込めているような人は私の友達に相応しくないからだ。
 一つ断っておくと、私は潔癖症ではなく綺麗好きなだけだ。バスの手すりや役所のドアの取っ手に触れることを厭わしく思うことはないし、友達の手作りクッキーだって平気で口に放り込める(尤も、マズければ話は変わる)。地面に鞄を置くのも特に気にしないし、家に人を招き入れることに抵抗を感じたりもしない。
 ともかく私は、金魚の友人とは疎遠になった。だから水槽や金魚のエサといった飼育道具一式もゴミになった。

 金魚に愛想を尽かした私が次にハマったのは「ミニマリスト」の考え方だった。というのも、当たり前だがモノがないということは部屋がそれだけ綺麗に片付くのだ。私の変化に気付いた同僚が私のアパートを見て、「引っ越すの?」と言ったとき、私は大声で笑ってしまった。
 人間の人生に必要不可欠なモノは案外そう多くないらしい。私は大事にしていた詩集や小説を束ねて資源ゴミに出した。本がなくなると本棚も不要になった。私は本棚を粗大ゴミに出した。私は毎日ゴミを出した。部屋はどんどん綺麗になった。私は心の底から幸せが湧き出るのを感じた。連中が住むような、穢い水槽の底で蠢くのなんかまっぴらごめんである。
 フローリングを磨く最中、邪魔をしたカーペットは即座に丸めて捨てた。私の部屋にはクローゼットと僅かな衣類、最低限の食料くらいしかなくなった。あとはスマホと敷き布団(ベッドは邪魔なので処分した)くらいか。
 そうなると困ったことが出てくる。私は部屋に追いつけなくなった。というのも、「ああ、コイツも汚水の底の住人か」という評価を知り合いに下してしまうことが増えたのだ。清い水に住んでいる私に、誰一人として相応しい輩がいないのだ。職場の上司、優しい先輩、素直な後輩、素敵だった・・・友人、尊敬すべき家族、……みんなみんな、濁った水の底を「快適」と言って過ごしている。その感覚が私には理解できなかった。そうなると、清らかで完璧な私の部屋に、私自身が相応しくなくなった。
 私はだんだん家に戻るのが辛くなった。アパートの玄関をくぐり、鍵とチェーンをしっかりかけてから、その場で服を脱いで風呂に直行するようになった。外界の汚れを落としてからでないと、あの清潔な部屋が汚れてしまうような気がしたからだ。くたくたになって部屋に入ると、私の心は満たされる。透明な水に身体を晒す心地よさを、理解してくれる人はいるのだろうか?

 妹が倒れたのはこの頃だったと思う。倒れた、といっても脳卒中とかそういった病ではなくて、単なる熱中症……いや熱中症も甘く見てはならない病ではある。病院に担ぎ込まれている私は妹が心配だったのでよく付き添った。「お姉ちゃんは大袈裟なだなぁ」と妹は笑っていたが、私にとっては大袈裟でもなんでもなかった。私はしばらく実家に身を寄せることにした。実家の酷く散らかった――床に落ちている新聞の束や、テーブルに散らばっている鉛筆など――空間は私にとってはストレスの塊だったが、それは妹の見舞いに行くことでなんとか発散できていた。病院はいい。明らかに消毒されていると分かるエタノールの臭いも、汚れの気配すら感じない白いカーテンも……。
 妹はわりとすぐに退院し、私もそれを期にアパートへ戻った。
 私はいつも通り、帰ってすぐにシャワーを浴びて、清らかな部屋へと足を踏み入れた。すると、足の裏がザラリとしたので私は思わず悲鳴を上げた。
 当たり前の話だ。この部屋は長期間・・・放置されていた。朝になって床に落ちた埃を拭う人は居なかった。私の部屋は酷く汚くなっていたのだ。
 私は耐えきれず夕暮れの街に飛び出した。半狂乱になってアスファルトの道を駆けた。自分があの汚い水槽の住人と同じところに沈んだ事実に耐えられなくなった。私は違う、私はアイツらみたいにだらしなくて汚らわしい生き物ではない。濁った水槽で糞をする金魚でもなければ、空のペットボトルを置いといても平気な人間でもない。
 私は違う、私は――
 清く澄んだ水に泳ぐ魚なのだ。

 テールランプの光は夕暮れに輝く川のようで、高尚な美しさがあった。
 魚が川に飛び込むことに疑問を呈する者はほとんどいないだろうが、人間が車道に飛び込んだ瞬間は――。


 清掃業者たちがアパートの部屋へと入り込む。
「家財は処分して構わないとのことでしたが、処分するようなものはありませんねぇ」
 そんなことを言いながら、彼らは丁寧にアパートの掃除をした。これだけ綺麗だと楽ですね、と語る後輩に、先輩清掃員は首を横に振った。
「バカなことを言うな、どんなに綺麗にしていても大抵の場合は素人の自己満足。目に見えない汚れなんかがたくさんあったりするんだ。むしろ、こういう部屋こそ、逆にめちゃくちゃ汚かったりするんだ。気を抜くなよ」
「はいっ!」
 気を引き締めた後輩清掃員は背筋を伸ばし、手始めにクローゼットの服をゴミ袋へ押し込んだ。

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)