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【短編小説】小説の中のワタシ

「どうしよう、ワタシ、高階敬一たかしなけいいちに見張られているかもしれない」
 大真面目な顔のノリコがそんなことを言いだすので、私も少し真剣な面持ちになって彼女の話を聞いた。
 スターバックスはフラペチーノの最新作の販売開始日というだけあってバカみたいに混雑していた。普段フラペチーノのフの字にも縁がないような人たちが、気だるそうにスマホを弄って列を作っている。
「とりあえず、これ読んで」
 ノリコが取り出した分厚いコピー用紙の束には、時折蛍光ペンで線が引かれていた。私はそれを読み流しながら、カフェ特有のほどよい喧噪を聞いた。
 高階敬一は私たちのクラスメイトだ。休み時間にも本を読んでいるような典型的なインドア派。文芸部に所属していて、文化祭が近づくと自分で短編集を出している。私はもともと読書が好きなので、高階の本は必ず読んでいた。書店の本には存在しない、妙な青臭さが私のツボだった。
 ノリコが取り出したのは「ルージュ・テスト」というタイトルの短編だった。主人公の男子学生は、間違って色つきのリップクリームを購入してしまう。始めは映画やミュージックビデオのようにして鏡に落書きなんかをしてみるが、結局勿体ないからという理由で、それを唇に塗るシーンから始まる。「熟れた果実が僕の唇の形をしている」という一文を、私はわりと気に入っていた。
「これ、アイツが書いた小説なんだけど……この、Nっていうのがどー考えてもワタシなの!」
 その喧噪の中で、ノリコの声はやたら強い輪郭をもって響いた。隣の席のOLが少しこちらへ視線を寄越したのが分かる。こういう音は嫌われる。喫茶店の喧騒に意味のある言葉は出しゃばってはいけないのだ。
「N」と書かれた箇所を全て黄色い蛍光ペンで丁寧に塗ってある紙切れに、私は目を通した。読み覚えのる文章だが、このNがノリコだとすれば――。
「あんた……高階の原稿用紙破いて床にぶちまけて踏みにじったの?」
「そこまではしてないけど、直前の台詞あるじゃん」
「台詞?」私は文字を辿った。Nが「売れる作家先生でもないくせにそんなもの書いて、何になるの?」と言っている。
「これ、ホントなの?」
「全部あってるわけじゃないけど……」ノリコの歯切れが悪い。彼女が目をせわしなく動かすのは話題を変えようとするときの合図だ。
 私はもう一度高階の文章に目を通す。Nこれのモデルがノリコというよりは、ノリコが投げてきた言葉に傷ついた高階本人が主人公のモデル、というような気がした。
「でもその後も、ほら、ハンドクリームの匂いとか。桃の匂いって、ワタシが使ってるやつだし」
 私はこの時点で既に呆れていた。ピーチの香りがするハンドクリームなんて掃いて捨てるほどあると思う。私はあの匂いがあんまり得意ではないので実際はどうなのか分からないが。果物特有の爽やかな雰囲気を全て取り除いて、気怠げな甘さだけを煮詰めたような香りが「桃」と名乗るだけで一言もの申したくなってしまう。
「それに、ほら。この後スタバにいるシーンで『NとTがやってきた』ってあるじゃん、これワタシとチヨのことだよ!」
 チヨはCHIYOなのでCなのだが……と思ったが私は何も言わなかった。私は高階のこの文を家に置いているのだが、初めて目を通したときは勿論のこと、興奮してまくし立てるノリコを目の当たりにしても「N=ノリコ」とは思わなかった。
 隣の席のOLたちがそそくさと席を立った。心なしか苛立っているように見えた。七百円するフラペチーノと席代が、私たちのせいで台無しになったかのような振る舞いだった。
「あ!」
 学習しないノリコは遠慮なく大声を出す。しかし私は今のノリコを責められない。私も小さな声とはいえ、「あ」と言ってしまったから。
「高階! ちょっとこれどういうこと!」
 興奮したノリコは高階の手を取って無理矢理私たちの席に座らせた(四人掛けの席だった)。高階は私の顔をじっと見ていたが、テーブルに置かれた自分の小説を見て何があったのかを察したらしい。
 ノリコは高階の真向かいに座った。
「ねぇ、これワタシのことでしょ!?」
 私は「声を抑えて」とノリコに言ったが聞こえてないようだった。高階の手にはアイスコーヒーがあった。スタバ渾身のフラペチーノ販売開始日に、気が狂いそうになる長蛇の列に並んでやることが「アイスコーヒーを買う」というのが、なんだか高階らしい。
「これは水沢のことじゃないよ」と高階は文章に目を通すことなく言った。アイスコーヒーのような爽やかな声だった。
「俺が書くのはいつも俺のことだから」
 そう言って高階はアイスコーヒーを一口飲んだ。私の解釈にはハナマルがついた。
「こんなにワタシと共通項があるのに?」
 とノリコは不服そうだった。そんな彼女に対して高階はどこ吹く風であったが、ふと思い出したかのようにして呟いた。
「ていうか、自分のことだって思ったんだ」
 私もノリコも顔を上げた。このとき、スターバックスの喧噪は私たちを置き去りにした。私たちは自分の耳の奥で鈍く響く人体の音を聞いた。コーヒーの匂いだけが私たちをスターバックスにつなぎ止めている。ノリコが口をパクパクしていたので、酸素の類もどこかに消えたのかと思った。が、それは違うらしい。私たちはそもそも魚ではなかった。
「これを読んで、Nを客観的に見て、自分だと思う程度の自覚はあったんだ」
「やっぱりワタシのことじゃない!」
 ノリコが立ち上がった弾みに残り少ないフラペチーノのカップが転びそうになる。私は慌ててそれを抑えた。
「違うよ。NはNだ。自覚なしに人に酷いことを言って、相手が傷ついたら相手が弱いからと人のせいにする人。イマドキの女子らしく良い匂いのするハンドクリームや、オシャレな食べ物が好きなだけの人。よくいるだろ、そういうやつ」
 私は高階の言葉をぼんやり聞きながら、Nみたいなのが沢山居たら嫌だなぁとも思った。いい匂いのするハンドクリームやオシャレな食べ物が好きなだけならともかく、自分の発した言葉が適切かどうかの判断すらできない人なんかまっぴらごめんだ。
「でも、お前はNを見て『自分だ』って思ったんだろ。自覚なしに人を傷つけるNを自分だって思ったんなら、あんたにはその自覚があるってことだ」
 ノリコの顔はみるみるうちに真っ赤になっていく。今にも泣き出しそうな彼女に、高階は動じることなく言った。
「合格おめでとう」
 高階はそう言って席を立った。彼のアイスコーヒーは既に空っぽだった。ノリコは顔を真っ赤にして俯いていた。
 その顔色はまさに口紅の色に似ていた。

 私は家に帰ってから「ルージュテスト」という言葉を調べた。それで、確信した。NはNでノリコではないのだと。文字の羅列、口紅の文字。鏡に映るもののように、この小説の人物は所詮虚像でしかないのだと。

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)