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【短編小説】平穏と善

 中学時代のことを、時々思い出す。
 私たちのクラスは常に暴言と偽善者に怯えていた。どちらもスクールカースト上位に君臨していたバカ女二人で、どんなやつだったのかといえばそのあだ名がすべてを物語っている。常に自分を正当化し、決して自らの過ちを認めないのだが、先生からの評価は高く外観も平均より上だったので連中の味方は多かった。
 偽善者が余計なことをして私たちを困らせて、暴言がそれを正当化する。暴言は常に偽善者に可愛がられていたので、偽善者のすることが正義であった。一度だけ美術の先生が彼女たちを窘めたことがあったが、偽善者は被害者面して暴言は先生相手にも容赦なく暴言を吐いた。私たちは美術室の隅っこで手を取り合って怯えていたが、暴言の信者たちはわくわくしながら隣接する美術準備室に聞き耳を立てていた。私たちは美術の授業の時間を、暴言の叫び声を聞いて過ごした。
 私の友人のAは暴言に嫌われていた。休み時間に大人しく本を読んでいた彼女は暴言の害にはなりえなかったはずなのだが、「それ、おもしろいよな」とクラスの男子に話しかけられたのが原因であった。Aが読んでいたのは今一番流行っているファンタジー小説だったし、男子との会話だって「それ、おもしろいよな」「××くんも読んだことあるの?」「一巻だけな」で終わった。Aは彼に色目を使うなんてことはしていない。だけど暴言にはそれが気に入らなかった。最悪なことに偽善者はAと暴言の間を取り持とうと暗躍した。さすが偽善者、偽善のコンプリートには余念がない。
 Aは幾度となく暴言に呼び出されて、酷い言葉をかけられた。私はそんな呼び出しに行くなと言ったのだが、臆病なAは事態の悪化を恐れて私の知らないところで暴言の言うことを聞き続けていた。暴言はバカだがバカではない。他人を言葉で傷つけることにしか興味がない。だから金銭を要求するとか、裸の写真をSNSでばらまくとか、万引きを強要するとか、そういったことは一切しなかった。ただただAを罵倒したのだ。本人が言うには、罵倒した「だけ」だそうだ。
 偽善者はAの話をウンウンとよく聞いて、寄り添ったふりをして「もっとちゃんと謝らないと許してもらえないよ?」と裏切る新たな手法を生み出した。さすが偽善者、と私は気を失いそうになった。私はAに保健室登校を勧めた。そこでならAの好きなファンタジー小説をいくらでも読めるし、もともとAは地頭がいいので多少授業を受けなくともなんとかなるような気がした。無理に教室の椅子に座り続けたら、Aの大切な箇所が壊れてしまうような気がしたのだ。それこそ、取り返しのつかないことになる不安があった。
 でも、そんな必要はなかった。六月が夏の顔を見せてきた頃のことだった。信号無視の乗用車が対向車と衝突し、衝撃で吹き飛んだ対向車が横断歩道の歩行者を轢く事故があった。対向車の運転手と、横断歩道を渡っていた三人が死亡。数人が怪我という大事故の犠牲者に暴言と偽善者がいた。先生は悲しそうに事故のことを話したが、私は事故のショックよりもあの二人が死んだ事実に対して沸き起こる喜びの大きさに戸惑っていた。
 担任が教室を出て行ったあと、クラスはざわざわとにぎわった。
「交通事故だって」「どこの?」「あのコンビニのあるところ」「あそこ事故多いよな」「即死だったって」
 噂の尾ひれはこうして長く長く紡がれていくのだろうか。私は腹の底から沸き起こる喜びを必死で抑えながら、地獄に落ちた暴言と偽善者の冥福を祈るふりをした。
 そのときだった、私の耳元に小さな笑い声が聞こえてきた。最初、私はそれを自分の笑い声かと錯覚した。増幅した笑いは私の力をはねのけて、全身で喜びを表現しようと爆発したのだと錯覚したのだ。しかし、それは私の笑い声ではなかった。クラスのざわめきもピタリと止んで、この教室にいるすべての人が同じ人物を見つめていた。
 みんなバカみたいに。ぽっかりと口をあけながら。
 私は歓喜を抑えるために口元を真一文字に結びながら、ゆっくりと振り返った。
 Aが笑っていた。バカみたいに、大口を開けて。動物が鳴き声を上げるかのようにして、体を揺らしながら。
「死んだ! ××と×××が死んだ!」
 私は彼女の哄笑の中にその言葉を聞いた。誰かが「不謹慎だぞ」と言ったのだが、別の女子がそれをかき消すかのようにして叫んだ。
「ああ、よかった。これでもう酷いこと言われずに済むんだ!」
 邪悪な笑みを浮かべながら言い放った彼女に続いて、二人の犠牲になった女子たちが次々に二人の死を祝い始める。
 ……おそらく、冥福を祈るのが人としては正しいのだろう。しかし腹の底ではどうだ? このクラスにふたりの死を嘆く者はいない。顔の良さで言い寄っていた男性陣だって、彼女たちと仲がよかったわけではない。顔のいい女なんてこの世にごまんといる。「あーあ、可哀想に」くらいの感情はあれど、頭の先から爪の先まで悲しみに浸っている奴はいないだろう。
 それならば、嫌いな奴の訃報を悲しむふりをすることに何の意味がある?
 私が歓喜のリミッターを外そうとしたとき、血相を変えた学年主任が「静かにしろ!」と怒鳴りこんできた。しかし暴言と偽善者を失った私たちの喜びはもう誰にも制御できなかった。実際、しばらく大人しかった私たちは二人の机に生けられていた菊を全部ゴミ箱に捨ててやったし、二人の葬式でも「死んでくれてありがとう」と念じながら焼香をした。常ににこにこと嬉しそうな様子は「同級生を失ったショックで精神がおかしくなった」という解釈でまかり通ったし、私たちはようやっと平穏な学生生活を手に入れた。それからは本当に何もなかった。毎年あの二人に黙祷をささげる儀式が増えたのは厄介だったが、私たちはそこでも口元が喜びに歪むのを隠そうとはしなかった。死んでくれてありがとうと念じることもなかった。ただ純粋に二人の死を喜び、祝っていた。私たちはあの二人と同じ人間になりたくなかったのだ。

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)