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【短編小説】めぐる弾圧 #4

こちらの続きです。


 交渉会場は混乱の最中にあった。カラスの魔物が窓を突き破り、テーブルに降り立ったのだ。恐怖のあまりミナーボナ夫人は椅子から転げ落ち、その際に紅茶のカップが派手にひっくり返る。白のテーブルクロスに中身が滲む。血のようにも見えた。ガシャン、という悲鳴とともに破片が飛び散る。ノアは魔物を追い払おうと腰の剣に手をかけたが、よく見るとその魔物はネロだった。
 ネロはノアの心境などつゆ知らず、そのままミナーボナ夫人のメイドに襲いかかった。メイドが悲鳴を上げた。黒い爪にメイドの髪が絡んでいる。
 拘束魔術を展開するのに、ためらいはなかった。ノアの判断は早かった。
 だが、放たれた拘束魔術を器用に回避したネロは、雑に足首の手紙をノアに蹴って寄越すと、テーブルに置いてあった資料――ノアとラスターがコバルトの家から持ってきたものだ――を器用に掴んで、そのまま窓から飛び立っていった。
 ノアは窓から外の様子を伺うふりをして、手紙を開いた。
 たった一言。

「撤収しろ」

 ……外に魔物の姿はない。分かっていたことだが、襲撃されたわけではない。部屋はものすごい有様だが、割れた窓ガラス以外の惨状はすべてミナーボナ夫人かその従者たちがやらかしたことである。
「ケガはありませんか?」
「は、はい……! なんとか、なんとか……!」
 ノアは、ネロに襲われた女の頭を確認した。爪の食い込んだ痕すらなかった。
「いったい、何が目的だったのかしら。ノアさんの資料を持って行ったみたいですが……」
 ミナーボナ夫人はおろおろとしながらも、カップの破片を拾おうとした。メイドが慌てて夫人を制止し、てきぱきと後片付けを始める。
 ノアはあたりを見渡す。フォンを通じた指示もこない。もしかしたらラスターたちの方に何かあったのかもしれない。そう思ったのは、フォンがこちらに逃げてきたからだ。
 聖水を浴びたのだという。ラスターたちのすぐ傍で。
「窓の外に他の魔物はいないようです。きっとあの魔物は誰かからの指示を受けてのものでしょう」
「いったい、誰が……?」
 不安げなミナーボナ夫人は、やはりおろおろとしながら部屋の片づけをしようとしたが、メイドが逐一止めに入っていた。彼女にできることはおろおろすることだけだった。
「地区側の人間と、あなた方ミナーボナ運動の当事者が、結託することを許さない人ですね」
「ま、まさか……!」
 ノアは少しだけ肩の力を抜いた。自然についた嘘だったからなのか、ミナーボナ夫人はノアの言葉を信用したらしい。
 地区の人間とミナーボナ運動の結託を拒否する人間。そんなもの、魔術師くらいしか存在しない。魔物を使役する人間と言えば大半がアンヒュームだが、中には魔物愛好家を自称する魔術師だって存在する。
「ミナーボナ夫人」
 ノアは夫人の手を取り、彼女の瞳を見つめながら告げた。
「地区に捨てられた子供を救う活動は、あなたにもできます。地区の入り口に座り込む以外の行動で」
「……つまり、わたくしが孤児院を運営すればよい、と?」
 ノアは小さく頷いた。
「おそらく、というよりは確実に、孤児院だけですべての子を救うことはできないでしょう。中には『孤児院があるから大丈夫』と言って無責任な投棄に走る魔術師が出てくるかもしれません。ですが、孤児院の設立は地区の入り口を占拠し続けるよりもはるかに有益な行動だと思いますよ」
「ローラ様っ!」
 メイドのルルーが声を張り上げる。彼女は筋金入りの魔力ナシアンヒューム嫌いで、ミナーボナ運動を反アンヒューム団体に仕立て上げようとした黒幕だ。そこに横やりが入れば、黙ったままではいられなくなる。
 だが、ミナーボナ夫人は、ノアの予想よりも遥かに強い女性であった。交渉開始時のへにゃへにゃした様子を考えると随分と立ち直ったらしい。心境の変化で人の印象までもがこんなに変わるものなのか、とノアは思った。
「ありがとう、ノアさん。わたくし、やってみます。どこまでできるかは分かりませんけれども、やるだけのことをやってみます」
 ルルーがノアを睨みつけてきたが、ノアは気づかないふりをした。
「さあ、善は急げです。ルルー、協力してくれますか?」
 ミナーボナ夫人の言葉にルルーは不服そうな顔をしていたが、ほかのメイドたちが「もちろんです!」と声を張り上げた。




 アングイスのアパートに戻ってきたノアは驚いた。ラスターとコバルトがボロボロになっている。二人ともむすっとした表情で、互いに顔を合わせようともしない。双方に身体拘束魔術が展開されているが、これはアングイスがやったものだろう。
「何が、あったの?」
「喧嘩だ、喧嘩!」
 ノアの問いにアングイスが食いついた。彼女はまるでカビのような色をした軟膏を手に取って、それをコバルトの顔に塗りたくっていた。
「そうだラスター、フォンは? 何があったの? 聖水を浴びそうになったって言って俺のところに避難してきたんだけど」
 ラスターの目がギラリと光る。怒りというよりは「待っていました!」と言わんばかりの勢いが宿っている。
「そこのクソバカボケナスちんちくりん情報屋がフォンに聖水ぶちまけたんだよ!」
 ノアは勢いよくコバルトの方を見た。コバルトは視線を逸らさず、じっとノアを見つめている。
 影の魔物であり、炎の性質を持つフォンは水が苦手だ。特に聖水のように邪気を祓う性質のあるものはとりわけ苦手どころか命にかかわる。不意に聖水を浴びてしまったフォンが命からがらラスターのペンダントに逃げるのをノアは何度か見ているので、そういった道具類を扱うときは細心の注意をはらっていた。コバルトだってそれを知らなかったわけではないだろう。
「それで、殴り合いしたの?」
「少しだけ、な。下手すりゃ銃だのナイフだのが出てくるかもしれなかったからワタシが止めた」
 アングイスは魔術師だ。更に医者をやっているので拘束魔術に関してはノアよりも精度がいい。
「こっちの様子を知られないようにするために必要だったからね」
「どういうこと?」
「お前さん、孤児院設立で本当に捨て子が減ると思うのか?」
「それは――」
 ミナーボナ夫人にも言った通り、と続けようとした口が止まる。あのとき、すでにフォンはノアのもとに逃げ込んでいた。ラスターたちはノアとミナーボナ夫人のやりとりを聞いていない。
 ノアが言いよどんだのを見て、コバルトの口元が歪む。
「確かにゼニスの依頼は達成されるだろうよ。だけどなんだ? 地区にとってはとんでもない副産物だ。孤児院? 魔術師連中に『じゃんじゃん子供を捨ててくださいね』って言ってるようなもんだろ」
 それは、ノアにも分かっている。孤児院設立で一番の弊害といってもいい。同時にコバルトが何を望んでいるのかもわかる。コバルトはそもそも「魔術師が地区に子供を捨てにやってくる・・・・・・・・のが嫌」なのだ。孤児院はそれの直接的な解決にはならない。
「俺としては、コバルトは孤児院設立しても構わないものだと思ってた」
「そんなわけないだろ、俺はただあのバカ女を地区から追い出せればそれでいいんだ。なんで孤児院なんて余計なモンを作って魔術師連中のガキの世話をしなきゃならないんだって話さ。ミナーボナは地区の孤児院設立にかつて反対署名をしていた上に、あの組織には反アンヒュームの献金もあった。そこをつついてくれたらよかったんだよ。だがお前さんは、あの女の涙を見た瞬間、ころーっと騙されやがった」
「あの涙は嘘なんかじゃないよ」
「嘘だね」コバルトは鼻を鳴らした。「あんなにすぐに泣きだす女は信用ならん」
「体質の人だっているだろ」ノアが目を丸くした。
「そんなこといちいち考えてるから出し抜かれるんだな」
「ノア、殴りたければそいつ殴っていいぞ」
 アングイスのヤジが飛んだ。勢いに乗った彼女はそのままコバルトに食ってかかる。軟膏を塗りたくる手があわやコバルトの目に入りそうになっていたが、お構いなしだ。
「だったら自分が行けばよかったじゃないか! 人に任せておいてわーわー文句言うのは失礼だぞ!」
「へぇ!? 牛乳買ってこいと頼んで間違って生クリーム買ってこられても怒るなってことか? そりゃあ知らなかった」
「……コバルトの言う通りの交渉もできたよ。だけど俺がそうすべきだと思った」
「涙一つでほだされるとはね」
「コバルト、あんた少し黙っててくれ」
 ラスターが口を開いた。コバルトと同様にアングイスの拘束魔術で身動きは取れていないが、彼の言葉には確かな威圧感があった。
「俺はノアの言い分を聞きたい。なんせ、俺たちはフォンからの説明でしか交渉の状況を把握できていないんだ」
 コバルトが鼻を鳴らす。ネロがすっと飛んできて、ラスターの頭をつつく。「このクソカラス!」という罵声がラスターの口から飛び出てきた。コバルトは視線でネロに「もう一丁つついてやれ」と指示を出す。ラスターは頭を動かしてネロの攻撃をやり過ごそうとしたが、徒労に終わっていた。
「結局、あそこでミナーボナ夫人をどかすだけなら、ミナーボナ夫人にとっては何もならないんだ」
 ノアはネロのことは無視して、ラスターの言う通り話を切り出した。
「俺も最初はコバルトの言う通り、彼女を地区から追い出す方向で話を進めようとしたんだ。だけど、ミナーボナ夫人が泣き始めたときに……地区の封鎖は解除されるかもしれないが、次は? 一度どいたならあとは大丈夫、ってことはないと思った」
 アングイスの魔力が動いたのが分かる。身体拘束魔術の威力が強められたのだ。黙って聞け、という先手の指示だろう。
「だから例えすぐに問題解決ができなかったとしても、彼女が二度と地区を封鎖しない方向に動いた方がいい。孤児院設立に誘導したのはそういうことだ。もしもコバルトの指示通り、彼女の今の主張と資料上の意思表示の矛盾をついて、ミナーボナ運動を崩壊させたとしても、再び同じ場所に矛先が向けられる可能性がある。それなら今、ミナーボナ夫人にひとつの終着点を与える方がいいんじゃないか。そう思ったんだ」
「『魔術師の名家の意識なんて、そう簡単に変わりませんから』ね」
 あからさまに皮肉と嫌味をたっぷりと込めた口調で、コバルトが吐き捨てる。
 ノアは何も言わなかった。
 思う存分ラスターをつつき回したネロが、所定の位置――ノアとラスターが持ち出した例の資料の上に戻ったとき、アングイスはラスターの身体拘束魔術を解除した。アングイスの手が動く。立ち去れと言っている。
 外は静かだ。
 旗もなびいていない。



気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)