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【短編小説】円柱の影

 「ねぇ、もうやめたら?」
 カフェの片隅で、ミホコはそんなことを言った。彼女の手にはドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟があったが、彼女はそれを読むために持ってきたわけではなかった。
 世間が秋に慣れてきた頃のことだった。
 私はキャラメルフラペチーノから口を離して、ミホコの目をまじまじと見つめてしまった。
「向いてないんじゃないの、あの試験」
 氷のように冷ややかな言葉が私の耳から脳髄へと流れていく。悲しみというのはいつも急速な伝わり方をする。私は「何よ急にー」と笑って見せたが、心臓は変な暴れ方をしていた。
 ミホコは自分の爪を見て、ラインストーンが輝いているかどうかを確認してから、呆れ払ったようにして答えた。
「だからさ、もうやめたらって。行政書士受けるの何回目だっけ?」
 平日の昼間というだけあって、カフェはそこまで混雑していなかった。これが午後になった瞬間、なにがどうなってそうなるのか分からないくらいにごった返す。仕事の繁忙期の関係で夏休みがいつも九月一日にまたがる時期のため、私たちはこういった贅沢が出来る。
「受験費用だってバカにならないし、もう八回も落ちてるんでしょ」
「いや、五回だけど……」
 は、とミホコは馬鹿にした笑いを見せた。前歯にアーモンドの欠片が挟まっていた。
「同じよ同じ」
 ミホコは長いまつげをぱしぱしさせながら、怒りを込めた言葉を投げてくる。私は何故彼女が怒っているのか分からなくなって軽いパニックになった。
「私の知り合いなんか仕事と育児両立させて行政書士一発で合格してるし、それ考えたら独身のあんたなんかめちゃくちゃ有利じゃん。なのに取れないってもう本気度が足りないんだよね。いつまでもダラダラしてさぁ、ここの問題が難しいだのなんだのと言い訳ばかりタラタラ……そうやって失敗した自分をヨシヨシして貰うの楽しい? いつもここに入り浸ってるけど、その時点でもう合格うかる気ないよね」
 私は何も言い返せずにミホコをじっと見つめた。ミホコは心底呆れたという風にして席を立った。普段より静かなカフェで、私は端末を取り出す。ログアウトのボタンを押して、ぐっと伸びをした。
「なんだったんだ……」
 パソコンの画面を見る。新規のメッセージが届いていたので確認したところ、一部始終を聞いていた勉強仲間から励ましのメールが来ていた。
 私はもともとカフェで勉強するのが捗る性分だったので、時折こうしてメタバース空間のカフェにお邪魔して資格の勉強をしていた。チャット欄では同じく行政書士を目指す仲間たちが進捗を報告したり、分からないことを質問しあったりしている。
 しかし、アバターに民法のテキストや六法全書を持たせるわけにはいかなかった。私の格好はお気に入りのフラペチーノを持つ無課金勢、と言ったところか。だから何も知らない――それこそミホコのような――人が私のことを見た場合は、勉強をサボってカフェに入り浸る人にしか見えないだろう。
 新着メールが次々とやってくる。中には本物のカフェで使えるクーポン券を寄越す人も居た。大丈夫だよ、と返信すると「私も二回宅建落ちて散々言われたことある!」という斜め上の励ましが来た。
 私は未だに気遣いのメッセージが飛び交う中、共有チャットに「一括で失礼します。みなさんありがとう。心配しないで、大丈夫です。少しゆっくり休みます」とメッセージを投げる。チャット欄を閉じてメールボックスも閉じると画面が随分とスッキリした。
 メタバース空間の私がじっと街を見ている。電柱のオブジェクトを見て、私はふと影絵のことを思い出した。スクリーンの後で物を示し、「これ、なーんだ」と子供たちに問いかける教育番組。影だけで正体を判別するというクイズコーナーのお題が円柱だったのだ。
 最初、影は縦に長い長方形だった。私はお菓子の箱か何かかなと思ったのだが、角度を変えた瞬間、隠されていた円の縁があらわになったのだ。私はそのことを思い出した。ミホコの言葉はまさに円柱の影を見ての判断だった。
 まぁ、ミホコの言うことも分かる。あれも私という円柱の一部分だから。だからといってあんな物言いをされてはこちらの精神が持たない。
 私は気分転換のために、コーヒーのおかわりを淹れようと思い立った。そしたら民法の続きでもやるか、なんて思いながら、少し沈んだ心で階段を下りる。一口分だけ残っていたコーヒーの匂いを嗅ぐと、なんだか妙に腹も立ってきた。戻ったらミホコをブロックしてやろう、と考えると前向きになれたような気がする。
 鼻歌を歌う私に高二の弟が引いていたが、私は気にせずキッチンの扉を閉めた。

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)