見出し画像

【短編小説】夕食

 年の割にはしっかりしているね、と褒められるのは確かに嬉しかったのだが、少し複雑な感情が鎌首をもたげたのも事実だった。僕はランドセルを背負ったまま、今日も同じ買い物メモを持って商店街の方へと向かう。買い物は好きだ。外に出られるし、褒められる。少しくらい帰宅が遅れても怒られることはない。何よりうるさい弟と面倒な妹の世話をする必要がない上に、母がヒステリックに怒鳴る声を聞かずに済むというのは救いだった。僕は少し考えて挽肉を買った。合い挽き肉は少し値段が張ったので豚の挽肉にしておいた。食事の味がよく分からなくなったのはいつ頃からだっただろうか。肉屋のおばちゃんはオマケにコロッケをくれた。僕は挽肉の袋とコロッケの袋を受け取って、大きな声でお礼を言った。
 商店街を離れて少ししたところで、僕はコロッケの袋だけをランドセルへと押し込んだ。
 今日の夕飯はハンバーグだ。僕にも作れる簡単な料理だ。家に戻ると弟がテレビを見ていた。今流行の少年漫画のアニメーションで、主人公が敵をボコボコに殴っているシーンだった。僕はアニメに興味がなかったので、台所に行ってハンバーグの準備に取りかかった。妹は大人しくお人形遊びをしていた。昔は僕もアニメを見て、戦隊ヒーローのフィギュア遊びなんかをしていたと思うのだけれど、そういったものへの興味や関心というものを、どこかに忘れてしまったらしい。学校で書いた作文を親に見せようと思っていたのに、机の中にうっかり置いてきたときのような哀しさがいつだってそこにあった。僕の夢はもう遠い遠い別の場所に置き去りにされて、今頃どうなっているか分からない。
 挽肉をこねて、塩胡椒を入れた。形を丸く整えたら、フライパンで焼いていく。
 ハンバーグを焼いている間、ご飯の準備をする。戸棚にはまだご飯があるのでスーパーへ寄る必要はなさそうだった。蓋を少しだけ開けてからレンジに入れて、時間を設定。たった二分でご飯が炊けるのでとてもありがたい。
「おい、おなかへった!」
 テレビをつけっぱなしにしながら弟がこっちにやってきた。妹の様子を見ると、どうやら人形を片付けているらしい。僕は弟にご飯を見るように言った。熱いから気をつけてねといったところで意味はない。弟は僕の言うことを聞かないのだ。僕が頼み事をした瞬間、弟はするりと椅子に座って、ご飯が出てくるのを待つ。おとぎ話のわがままな王子様みたいだ。僕は皿にハンバーグを盛り付けて弟の前に出してやった。弟はご機嫌だった。彼は肉料理が好きなのだ。
 遅れてやってきた妹にも、ハンバーグをもりつけてやった。小さな声で「いただきます」と呟いた妹は箸の扱いが上手だった。
 僕もハンバーグを食べようとしたのだが、少し気を緩めた途端、弟が妹のハンバーグを強奪していた。僕は弟を叱ったが、妹のハンバーグは既に彼の胃の中にあった。妹は諦めたようにして皿のソースを舐めていた。弟はカップにご飯粒を大量に残したまま寝床へ駆け込んでしまった。僕は僕のハンバーグを妹に分けてやった。
「おにいちゃん、ありがとう」と呟いた妹は素直で僕の言うことをよく聞いたので、箸の扱いが上手だった。

 弟妹が眠りについてから、僕はランドセルを開けた。オマケでもらったコロッケは僕が無理矢理ランドセルに詰めたせいでひしゃげていたが、食べるのに問題はなかった。一口かじるとほくほくした食感の中にぼろぼろと肉が混じっているのが分かった。
 ――暗い部屋の向こうから、母親の甲高い声が聞こえる。
 昔、僕はアレが怖かった。暗闇から聞こえる母の声は何かを拒絶しているくせに、それがあからさまな嘘だと子供の僕にも分かったのだ。僕は母に悪霊か何かがとりついて、母に下手な嘘をつかせようとしているのではないかと恐怖にとりつかれた。いつだったか、僕は意を決して部屋の様子を見に行ったことがある。扉を開けると同時に懐中電灯の電源を入れると、母はベッドで横になっていた。その隣で眩しそうにこちらを睨んだ男の耳に金のピアスが光っていた。その後、僕はその男に「ガキはもう寝ろよ」とやんわり叱られ、翌朝になって母にも叱られたので、それ以降、僕は母が嘘をついても何を叫んでも気にしないことにしたのだ。母が悪霊に取り憑かれることよりも、朝から叱られることの方が嫌だった。
 今になって、あれが何なのかぼんやりと理解できるようになったとき、僕はあの人が七人目の父親になるのだろうかと考えた。もしそうなったとして、今度は半年持つのだろうかと考えたりした。半年というのは弟の父の最長記録だが、未だに誰も塗り替えていない。
 僕はコロッケをかじった。冷え切っていてもおいしい料理というのはこういうものを言うのだろうと思った。と、肉屋のおばちゃんが「今夜はハンバーグかい? 楽しみだねぇ! お母さんにたくさん作ってもらうんだよ!」と笑う声を不意に思い出してしまったので、僕はなんだか、鼻の辺りがぐちゃぐちゃになるような気がして、急いで残りのコロッケを口の中へと放り込んだ。

 僕は同じ買い物メモを握りながら、今日も何かを買いに行く。
 妹が珍しく「シチューが食べたい」とだだをこねてきた。シチューは僕の嫌いな料理だった。商店街で偶然かかっていたテレビコマーシャルで、僕と同じくらいの年齢の少年が、ニコニコ笑うお母さんとお父さんと一緒にシチューを食べるシーンを見て以来、僕はシチューを食べられなくなった。何度か食べてみようと努力はしたものの、喉の奥から強烈な「拒絶」の意思が襲いかかって、嘔吐いてしまうのだ。僕は妹に嘘をつくことにした。お肉屋さんがやっていなかったよと言えば妹は信じてくれるのだ。
 ……魚屋の前で足を止めた僕に、おじさんが声をかけてくれた。
「三枚に下ろしてあげようか?」
「さんまい……?」
「食べやすく切ってあげるよ、お母さんに頼まれたんじゃないのかい?」
 僕は少し戸惑った。魚を買うのは初めてだった。手元の買い物メモはいつだって同じ言葉が書いてある。僕はメモと魚を順番に見比べて、何と言うべきか迷うふりをした。少しそうしてから、僕は魚の名前を答えた。今が旬! と張り出されている安そうな魚を買ったのだ。
 おじさんは手際よく、魚を捌いて持ってきてくれた。一匹だったはずの魚は切り身になっていて、おじさんは「ムニエルとかにしても美味いぞ」と笑っていた。前歯が一本、金歯だった。
 僕はお金を支払って、魚の切り身を持って家へと帰った。
 弟が泣いた。肉がいいと泣いた弟に僕は「文句があるなら食べなくていい」と言った。弟は僕に舌を出して寝床へと駆け込んでしまった。テレビはつけっぱなしだった。丁度CMの時間だったらしく、小さな箱の中で子供たちがカレーライスを作っていた。そういえば、もうじき母の日だった。思い出したくもなかったけれど。
 僕は切り身を焼いてみた。ムニエルという料理の作り方を習えば良かったと思った。僕は妹を呼ぼうとしたけれど、そういえば妹の姿が見当たらなかった。母も居ない。父親は、元から居ない。
 遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。僕は一人で切り身を焼いて食べた。やっぱりムニエルという料理の作り方を習えばよかったと思ったけれど、塩胡椒でも十分に美味かった。一人で三人分を食べるのは多かったのでご飯はチンしなかったけれど、その判断は正しかったような気がする。
 つけっぱなしのテレビを消して、僕は夕食を再開した。パトカーのサイレンが聞こえる。あれ以上テレビを見ていると僕はシチューだけではなくていろいろなものを嫌いになってしまうような気がした。僕は塩胡椒で焼いた魚の切り身を食べながら、商店街のことを思い浮かべた。明日もまたあの場所に行けるのなら、僕はまだ、大丈夫だと思い込みたかったのだ。
 ……パトカーのサイレンが、近づいている。

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)