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【短編小説】屋台のやきそば

 鉄板に触れたソースが香ばしい香りを一斉に叫び始める。夜をまとった夏の風が、日中の暴力的な熱を忘れたかのようにして吹きわたってみるものの、あの残虐性はどうしてもこびりついたまま離れないのであった。大学の夏休み、居酒屋の店長が夏まつりの屋台に焼きそばを出店するぞと言い出したので僕はそれに駆り出された。一日だけの簡単な仕事で、鉄板の傍は暑いといえば暑いけれど、耐えられないほどの苦痛ではなかった。
 鉄板の上でジャッジャッと焼きそばを返していると、ふらふらと大人が寄ってくる。「にいちゃん、焼きそば一つ!」と少し酔っぱらったお兄さんが五百円玉を差し出してきた。僕と同じバイトの女の子が接客に当たる。お兄さんは受け取った焼きそばにマヨネーズをたっぷりかけて、七味もちょっとかけて、雑踏の中に消えていった。「うンめぇー!」という声がさほど遠くない位置から立ち上った。僕は首のタオルで汗をぬぐいながら、焼きあがった焼きそばをプラスチックのケースに入れた。
 いつも雑踏の側にいた僕にとって、屋台側から人々を眺めるというのは初めての経験だった。僕はソースの匂いを肺いっぱいに吸い込みながら鉄板を撫でた。子供が目をキラキラさせてこちらを見つめている。かつては僕もあの場所にいた。焼きそばを作るとか、たこ焼きをひっくり返すとか、クレープの生地を撫でるとか、そういったものがすべて珍しくて、僕はじいとそれを見ていたのだ。
「ほら、たっくん。行くよ」
 子供の父親らしい人が子供の手を引いた。子供はちょっと名残惜しそうにしながら、僕に手を振った。僕も手を振った。子供がニカッと笑うのと、父親が頭を下げるのはほぼ同時であった。
 ニンジンを広げながら、僕は僕の夏祭りを思い出した。あのくらいの子供よりもちょっと年齢が行ったくらいの頃の話で、僕は小学三年生だった。多分一人でお祭りに行ったんだと思う。友達がいなかったわけではなくて、多分何かしらの事情があったのだと思う。母は僕が友達と遊びに行くときには千円をくれたし、この祭りのときには千円札をもらった記憶がない。僕は月のお小遣い三百円をやりくりしなければならなかった。なけなしの五百円を握り締めて祭りに行ったのだ。
 その祭りで、僕は焼きそばを作る様子を夢中になって見ていた。店主はまさに「おばちゃん」という言葉がよい意味でお似合いの、優しい女性であった。同じ間隔で切られたニンジンを炒めてから肉を入れて、野菜を入れて、ほぐした麺を入れる。ソースで味をつけて、さらに炒める。僕はソースの香りがふわっと広がる瞬間が好きで、少ないお小遣いを握り締めて五百円の焼きそばを買おうかどうか迷っていた。おばちゃんはそんな僕を見て「他の屋台もみて、じっくり考えたら?」と笑っていた。僕は月のお小遣いが三百円であることをおばちゃんに言った。おばちゃんは「僕、何年生?」と尋ねてきた。僕は「三年生」と答えた。
「三年生かぁ。学校は楽しい?」
 僕はちょっと迷ってから頷いた。友達と遊ぶのは楽しいけれど、勉強はあまり得意ではなかったからだ。おばちゃんはそっかそっかぁ、と言って、鉄板を撫でた。僕はまた焼きそばを作るところが見れるんだな、と思いながら、百円玉を五枚握り締めていた。
 野菜と肉を炒めているタイミングでカップルがやってきた。女の人が僕を邪魔そうに見て、僕はちょっとだけどいた。女の人は舌打ちをした。
「これ、一つください」
 彼氏の方が焼きそばを買った。すると彼女の方がすごく嫌な顔をした。
「え? 買うの?」
「おいしそうじゃん」
「だって五百円だよ? こんな焼きそばが五百円もするんだよ?」
 彼女の声はすごくよく通って、雑踏の人たちは苦笑いを浮かべながら通り過ぎて行った。嫌だなぁ、という風にして顔をしかめる人もいた。僕はすっかり縮こまってしまい、逃げるタイミングを逃していた。
「ソースが絡んで、おいしいよ!」
 おばちゃんは笑顔で言った。彼氏は「すみませんね、うちの彼女が」と言いながら五百円玉をおばちゃんに渡していた。
「はいよ、五百円ちょうど!」
 おばちゃんは作り置いてあった焼きそば(さっきできたばかりのやつだ)を彼氏に渡していた。彼女は「信じられない」と言って肩をすくめていた。
「何機嫌悪くしてるの?」
「だって、そんな焼きそばに五百円も支払うなんて」
「俺の金だからいいだろ」
「結婚してからもそうやって無駄遣いするんだ?」
「なんでそこで結婚の話になるんだよ」
 彼氏の方もちょっと不機嫌になった。そのまま喧嘩がヒートアップして、僕にもおばちゃんにもどうにもならなくなってしまった。彼氏が彼女の肩に手をかけたとき、彼女はそれを払おうとした。その手が、彼氏の持っていた焼きそばに当たった。焼きそばはきれいな放物線を描いて、僕のすぐそばに落ちてしまった。彼氏はものすごい暴言を吐いた。彼女もものすごい暴言を吐いた。僕は地面に落ちた焼きそばをじっと見つめていた。本当ならおいしく食べてもらって、おいしいって笑ってもらって、お祭りを楽しんでもらうためのものだったはずだ。こんな風に地面に投げ出されるべきものではなかったはずだ。僕は焼きそばをせめてプラスチックの入れ物に戻してやろうと思った。ちょっと熱かったけど、焼きそばのため(今思えばちょっと滑稽だったかもしれない)と思って、麺やニンジン、キャベツに肉を拾い上げて戻した。僕は焼きそばに感情移入をして、惨めな気持ちになっていた。
 そんなことをしているうちに、雑踏の向こうからやってきた警備の人がカップルを連れて行った。
「ぼく、大丈夫? けがはない?」
 おばちゃんがそう言って、僕の傍にしゃがんだ。僕は落ちた焼きそばをおばちゃんに手渡した。
「入れてくれたのね、ありがとう」
 おばちゃんはそう言って、僕の入れた焼きそばを別のところに置いた。それから、僕の手をウェットティッシュで拭いてくれた。
「これはおばちゃんからのお礼」
 そう言って、おばちゃんは僕に新しい焼きそばをくれた。僕は最初、それを断った。僕の財布には五百円が入っていたから、僕はそれを支払おうとした。
「いいの、いいの。お手伝いしてくれたお礼」
 当時の僕にはおばちゃんの言っている意味が分からなかった。僕にはそれらしい手伝いをした意識はなかった。おばちゃんのお手伝いをしていたらしいお姉さんがやってきて「マヨネーズはすき?」と聞いてきた。僕が頷くと、お姉さんは僕の焼きそばにマヨネーズをかけてくれた。
 ……僕はあのときの焼きそばの味を忘れられない。ちょっと伸びた麺に絡みついたソースの感じは、屋台でしか食べられない感触だと思う。「五百円もする」と叫んだ彼女が見出せなかった価値を、今、僕はこの焼きそばを通じて誰かに伝えることができているものなのだろうか。
 鉄板を撫でていると、カップルがやってきた。彼氏が「五百円もするぞ」というと、彼女は言った。
「分かんないかなぁ~。こういうところで食べるから五百円の価値があるのよ」
 彼女は僕に「やきそばふたつ」と言った。
「千円です」
「はい!」
 少し曲がった千円札を僕は受け取って、焼きそばを二つ手渡した。
「二つ食べるの?」
 彼氏が少し驚いていた。彼女は頬を膨らませながら言った。
「ちがうよ! これはツカサの分! 君も夏祭りの焼きそばのおいしさにトリコになってしまえばいい!」
「なんだそりゃ」
「ほら、マヨネーズかける!」
 ワイワイ言いながら調味料をセレクトする二人は、いい笑顔で僕にお礼を言って去っていった。
 ……さほど遠くない位置から、「おいしい」という声が立ち上った気がした。気のせいかと思った瞬間、「でしょー!?」という声が勢いよく空へと昇って行った。

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)