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【短編小説】人間の価値

 冬のO地区は非常に冷え込むのだが、浮浪者たちは何故かここを拠点にしている。他の地区ではどうだか分からないが、ここいらの連中は皆もの凄く仲が悪かったので、寝床争奪戦など毎度のことであった。常に怒声の残響がこびりつき、誰かがこぼしたビールの悪臭が漂う。
 ジャックはここの、古い顔ぶれだった。自分の年齢もあやふやだが、五十を超えていたのは間違いない。かつては小麦農場に雇われて汗水垂らして働いていたこともあったが、別れた妻が作った借金で首が回らなくなり、そのストレスから酒に逃げて肝臓をダメにした。毎日の食事にも困り果てた彼はやめておけばいいのに店で盗みを働いた。当然捕まって、仕事をクビになった。
 盗んだものが銅貨二枚のパンと銅貨一枚の小さな牛乳瓶だったため、店員は今回は見逃しましょうよと言ってくれた。しかし店長は頑なにそれを拒絶し治安部隊へと通報した。別に恨んではいない。恨むとしたらあのときの自分そのものだ。なんで盗もうなんて思ったのだろう。財布には銅貨が四枚入っていたのに。
 冬の寒さを耐え忍ぶために、ジャックは新聞紙にくるまった。それでも指先の感覚はなく、冷え切った床が直に熱を奪おうと躍起になる。咳をすると喉が痛む。その痛みも軽い風邪を引いたときのものではなくて、確実にこちらの命を奪いにかかる類いの病のものだ。こんなに弱ったジジイが相手だというのに、石畳の地面というのは本当に愛想がない。うう、と唸ったジャックが目を開けると、小汚いO地区が見えた。今日をなんとか生きようと悪あがきをする無価値な人間たち。遠くで誰かが咳をして、返事をするかのようにして自分も再び咳をする。ジャックもそのひとりだ。見慣れた光景である。
 だが、今日は少しばかり事情が違ったようだ。他の浮浪者たちも色めきだつのが聞こえた。なんとまあ、こんなところに若い女――見たところ十七か十八の女だ。とにかく治安の悪さに置いてズバ抜けたこの地区に、若い女がやってきたのだ。
 女は可愛らしいワンピースに身を包んで、泣きながら歩いていた。下を見つめながら歩いているので、ここがO地区であるということに気がついていないらしい。「ここは治安が悪いし汚いから絶対に近づくな!」と地元民は口を酸っぱくして言うし、学校でも「O地区には立ち入らないように」とわざわざ教えてくれるらしい。ジャックが少し視線を落とすと、自分がくるまっている小汚い新聞が目に入って、そこには大見出しにしては小さな文字で「足を踏んだ女を殺害 O地区浮浪者を逮捕」の文字が見えた。
 ジャックは軋む体にムチを打って立ち上がり、大声で叫んだ。
「おい! 嬢ちゃん!」
 女がびくりと反応した。ジャックはゲホゲホと咳をした。女は自分がどこにいるのかを即座に把握したらしい。女はパニックになった。鞄を抱えて走り出そうとして、床にへばりついていたチラシに足を取られてこけた。
 ジャックはため息をついた。他の浮浪者たちは事の成り行きを見守る者も居れば、興味が無いと言わんばかりにそっぽを向く者も居た。ここに居る連中の大半……いや、ほとんど全員は確かに碌でなしだが、迷い込んだ女をこれ幸いと言って襲う奴はほとんどいない。何故ならそういう輩はいずれ自分たちにとっても脅威になるので、皆が一丸となって追い払うのだ。普段はやれお前の新聞紙が俺の足に触れただの、やれお前の肩がぶつかっただので殴り合いになるくせに。だから新聞紙に書かれているようなことはあまり発生しない。他の地区より頻度が高いのは否めないが。
 ジャックは左脚を引きずりながら、ゆっくりと女に近づいた。
 女はグズグズ泣きながら「ころさないで……」と言った。
 ジャックは咳をした。
「殺さねぇよ。俺はな。ただ他の連中は知らん。こんなところ若い女の来る場所じゃねぇ。来た道を戻りな」
 女はぱっと顔を上げた。慌てて立ち上がり、「ありがとうございます」と言った。
「ここは入り口だけはデケえから、たまにあんたみたいなのが来るんだよ。気ィつけな」
 女は顔をグチャグチャにして、何度もお礼を言った。ジャックはそれが不思議でたまらなかった。
 足早に女が去って行くのを見届けて、ジャックは再び寝床へと潜った。少し動いただけだというのに、そこはすっかり冷え切っていた。
 ジャックは空咳を数回繰り出してから、何かを呟いて眠りについた。彼がなんと言ったのかは分からないが、祈りの言葉ではないのは確かだろう。


 ジャックの朝はくず鉄探しから始まる。軋む体にむち打てば、最低でも一日に銅貨三枚は稼げる。道行く人々が冷たい視線を向けてきたり、時に石を投げて追い払ってくるのも、ジャックは慣れっこだった。そして同時に仕方ないと思っていた。俺たちは社会のゴミだ。どうにもならないクズだ。聖職者の連中は皆口をそろえて「人は皆価値がある存在」なんて言うが、O地区の浮浪者なんざ居なくなった方がいいに決まっている。
 その日もジャックは背中に石がぶつかる感触を覚えながら、くず鉄を探した。バケツの底が見えない程度にくず鉄が溜まった、そのときだった。
「おじさんっ!」
 初め、ジャックはこれを街の喧騒のうちのひとつだと思った。しかしその声がどんどんと近づいてくるので、ジャックは近くにおじさんとやらがいるのかとキョロキョロした。しかし声の主は――先日助けてやったあの女は、ジャックのことを見つめて「おじさん」と言った。
「この前はありがとう」
 浮浪者と話をする女に、住民がヒソヒソと噂話をする。ジャックは気が重くなった。
「近づくなって忠告を忘れたのか、嬢ちゃん」
「お礼がしたかったの」
 ジャックは女から顔を背けて、咳をした。
「俺は今、ここでアンタのことを押し倒して酷いことだってできるんだぜ」
「嘘。そうだとしたらとっくにアタシは地面に頭をつけてる」
 口の立つ女だ。ジャックは閉口した。
「はいこれ。よかったら食べて」
 女は半ば無理矢理ジャックにバスケットを押しつけるとそのまま鮮やかに去っていった。ジャックは慌てて追いかけようとしたが、左脚の痛みが強まって上手く歩くことができなくなった。
 バスケットの中にはパンが六個入っていた。こりゃ随分と高級品だ。ジャックはそれを手に取って囓ってみた。懐かしい小麦の匂いが鼻腔を抜けた。

 ――穏やかな田舎の、ごくごくありふれた家庭の風景が見える。台所でお湯が沸いている。テーブルにはハムとスクランブルエッグの皿が人数分。死んだはずの父と母がいる。父は新聞を読み、母は笑っている。ジャックは本当にこのパンが好きね、と。
 ジャックは大きなパンを頬張りながら、うん、と大きく頷いた。

 O地区を満たす絶望と悪意と酒の臭いをかき分けて、追憶にある美しい光景がジャックの眼前に広がった。今の今まで忘れていた黄金の小麦畑。蜂蜜のほのかな甘みとバターのコクが走馬灯を作り出す。このまま自分は死ぬのだろうかとジャックは錯覚するほどだった。
 住民たちはヒソヒソと噂話をしている。ここには黄金の小麦畑も、穏やかに晴れた空もない。かつて傍にあった幸せも、生きる希望もありはしない。パンを貪る浮浪者が見ていた夢は、通行人には見えやしない。
 ジャックはいつものように咳をした。
 O地区、浮浪者の集まる場所。そこにあるのは絶望と憎悪と酒だけなのだから。

 女は事あるごとにジャックに話しかけてきた。本当に学習能力のない女だとジャックは思った。女は名をローズといい、父親と妹と弟の四人暮らしだそうだ。出稼ぎのため家を空けている父の代わりに、ローズは弟妹の母となっていた。先日泣きながらO地区を歩いていたのは、花の売り上げが良くないのはお前のせいだと職場の上司に言われたらしい。ローズは週に三回、街の花屋で働いているのだが、この半分腐ったような街では花などそうそう売れないようだ。
 これらの情報は別にジャックが聞き出したわけではなく、ローズが勝手に喋ったことだ。
「あんまりそういうことをべらべら喋るもんじゃねぇ」と言ってもローズは全く聞く耳を持たない。強情な女である。時々自分の家で出てきた鉄くずをジャックのバケツに寄付することもあった。
 ローズがもの凄くしつこいので、ジャックは鉄くず集めの場所を変えようかとも思った。しかし他のエリアは他の浮浪者が縄張りにしているので難しい話だ。
 ローズが話しかけてくるようになってから数日後、ジャックはこんなことを尋ねた。
「何で俺につきまとう?」
 するとローズは、何を当たり前のことを、と言わんばかりに答えた。
「だってあなた、アタシの命の恩人だもの」
 ああ、とジャックは納得した。
「そうか。あんたはあのまま奥に歩いて行ったら俺か別の浮浪者に散々犯されて殺されてたって言いてぇんだな」
 ローズが背筋をピンと伸ばした。「そういう意味じゃない!」という叫びは悲鳴に近かったので、ジャックは思わず仰け反った。
「アタシ、あのとき本当に辛かったの。仕事も上手くいかないし、弟は妹をいじめるし。もうどうにかなってた。道を間違えたのにも気づかないくらいにね。そこにあなたが声をかけてくれたのよ。"ここは危ない"って。アタシのこと気遣ってくれたのが嬉しかった」
 後半は殆ど涙声で聞こえなかった。ジャックは苦い顔をした。随分と情緒不安定な女だなと思った。ジャックは咳をして、ローズが泣き止むのを待ってやった。
 調子に乗った他の浮浪者が、ローズにパンをねだることもあった。ローズは嫌な顔ひとつ見せずにパンを配った。しかし彼らはローズの置かれた状況を知るやいなや、パンに飽きたとか言いだして、くず鉄集めで稼いだ小銭を片手にローズの花屋に並び始めた。
 まったく、単純な連中だ。と、思いながら、ジャックはその列に並んでいる。しかし、あるときから身体が思うように動かなくなった。列に並ぶ体力がないので、ジャックは数少ない友人に銅貨を預けて、自分の分の花を買ってもらおうかな、などと考えていた。

 人はいつも唐突に死ぬものだと、ジャックは思い込んでいた。しかし当人からすれば別に唐突でもなんでもないのだ。それは、まず黒い小さな点として現れた。この段階ではまだ誰も気にとめない。しかしその点がゆっくりと大きくなったのに気づいて、人々はいよいよ慌て出す。慌てる、ということは余裕がある、ということだ。ジャックは慌てなかった。慌てたところでできることなどなかったからだ。
 ジャックは新聞紙にくるまっていた。浮浪者仲間が「死んだか?」と聞いてくる度に「生きてるよ」と低い声で返事をした。長く続くものではないという自覚はあった。普段散々罵り合って唾を吐いている浮浪者たちが次々とジャックの周りに集まってきた。ジャック本人も、自分の末路を分かっていた。
 そこに駆けつけた女がいた。ローズを見た他の浮浪者たちは、さっと避けて道を作った。彼女は酷く汚れた床に膝を突いて、ジャックの顔を見つめながら言った。
「お医者様が来るから。もう少し頑張って、お願い」
 そう言って彼女は、ジャックの手を握った。
 そりゃ無理な話だ、とジャックは口を開いたが、上手く声にならなかった。代わりに、震える手で変色した巾着袋を取りだした。全財産を入れてある小さな袋だ。
「あんた……まだ、花を売ってるのか?」
「え? ……ええ。今も店長に怒られるけど、それがどうかしたの?」
「じゃあ、丁度いいや……」消え入りそうな声でジャックは言った。巾着袋をローズの手に強く押しつける。
「このはした金で買えるだけの花をくれ。どうせもう使い道がなくなる金だ。だったらアンタの役に立つ方が……」
 ジャックの視界が濁る。手から力が抜けていく。懐かしい小麦の匂いがした。
 小走りで医者がやってきたが、既に手遅れであった。


 それから……共同墓地には必ず花が供えられるようになった。最初に花を供えた女性が「なぜ、あなたは浮浪者の共同墓地に花を供えるのですか?」と尋ねられたとき、彼女は「前払いでもらっているから」と答えたという。
 彼女の死後は、彼女の行動に感銘を受けた人々が花を供えるようになったが、彼らは誰一人として「何故、花を供えるのか」を知らなかったという。
 O地区にはもう、浮浪者はいない。
 小さな花屋と、パン屋だけがある。

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