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【短編小説】絵筆を持っていたかった

 彼は会う度に絵を描いていた。
 よれよれのバッグにはいつもスケッチブックと小さなケースが入っていて、彼はいつも、気に入ったものがあればすぐにスケッチのモードに入ってしまう。砂浜だろうが草原だろうが、汚い場所に立ち入った靴を履いて皆が歩き回っているような汚い地べたでも、彼は構わず座って絵を描き始める。私と出会った頃は人の往来のど真ん中だろうが何だろうが座り込み、道行く人に蹴飛ばされそうになっても彼は構わず絵を描いていた。
 邪魔にならない場所に座った方がいいよと教えたのは私だ。何の因果か何の縁か、それはあまりよく分からないのだけれど、気がつけば私は犬にトイレの場所を教えるようにして彼に場所の取り方を教えていた。彼は最初、私を邪魔者のようにして扱っていたが「どうせなら集中できる場所で書いた方がいいでしょ」という私の理屈に納得して、実際蹴飛ばされそうにならずに絵を描ける環境が素晴らしいものだと理解出来たのか、私が居ないときにもちゃんとベンチや木陰に陣取って絵を描いていた。
 実際、彼はとても良い絵を描いた。絵に疎い私にも彼の絵の才能というものを理解できた(これも思い込みかもしれないが)のだから間違いない。
 そんなある日のことだった。彼が噴水の中でスケッチをしていたのを見かけた私はちょっと面食らった。確かに「邪魔にならない場所に座った方がいい」と教えたのは私で、噴水の中というのは「邪魔にならない場所」という意味では正しい。だが、常識的に考えてアリかナシかと言われたら――ナシだろう。
「噴水の中には入っちゃだめ」
 私は彼にそう声をかけた。近くに居た女が珍しい動物を見たときのような反応を示した。私に対して。失礼な話だ。
 彼はニカリと笑った。
「出ておいでよ、紙がよれて描きづらいでしょう」
 痛みがないのなら構わないのか、と私は呆れた。今は十一月の下旬でまともな神経を持っている人ならまず噴水には近づかない。入るなんて時期を問わずもっての外だが。ただ、この近隣で一番目立つのがこの噴水なので待ち合わせスポットとして利用している人は多い。
「けいちゃん」
 私が彼を噴水から引き上げるために、お気に入りのハイヒールを脱ごうとしたとき、後ろから声がした。親友はやたらぺなっぺなのトレンチコートを格好良く着こなして、ハイヒールを脱いだ私を怪訝そうな顔で見つめていた。
「何、十一月にもなって噴水に入ろうとしているの」
「だって、人が」
「いないじゃない、人なんて。」
 私は噴水を見た。
 彼は絵を描いていた。私は彼が噴水の中で絵を描いているという状況しか見えていなかったが、ようやく彼の様子が明らかにおかしいということに気がついた。私が彼と出会ったのは七月の下旬で、溶けかかったソフトクリームと格闘していたときのことだった。そのときも彼は噴水の中で絵を描いていた。
 だから何も違和感がなかったのだ。彼が少し汚れた白いTシャツを着て、カーキ色のよれよれのズボンを穿いていたとしても。だから――。
 私は困った顔をした。十一月の下旬。北国では雪がちらつく頃。彼は会う度に白のTシャツとカーキ色のよれよれのズボンを着用していた。そして、それは今も変わらない。この寒い中、彼は夏の服装をしていた。
 ざぶざぶと音を立てて、彼がこちらにやってきた。にっかりと白い歯を見せて笑った彼は私によれよれのバッグを差し出してきて、私は親友の手前どうするか少し迷っていた。だが、彼女に彼は見えていなくて、それが普通であるのなら、私も彼と同じであろうと決めた。
 私は赤ん坊を抱くようにして、彼のバッグを抱いた。
 彼の顔をちゃんと見るのはこれが初めてだった。日焼けした健康的な肌に、キラキラと輝く黒い瞳。鼻筋は通っていて、言ってしまえばなかなかのイケメンというやつだった。彼は凄く機敏な動きで、右手の指先を自分のこめかみ付近に添えた。敬礼だった。
「わっ、なにそのかばん?」
 彼女からすれば、私が急に見知らぬかばんを取りだしたように見えたのだろう。彼は満足そうに笑って、私の前から文字通り姿を消した。

 かばんの中には、小さなケースとスケッチブックがあった。随分と古いスケッチブックの日付は昭和から始まって、サインの日付は途切れることなく延々と続いていたが、赤ん坊の横顔を描いた絵の、昭和十九年の七月二十日で一度途切れていた。数ページの空白を挟んだ後、再び七月二十一日から始まった絵は草花をモチーフとしたものが多かったが、最後のページ、日付は平成三十年十一月二十四日。ややつり目がちに描かれた私の似顔絵で締められていた。

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)