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「許す」というオプションを常に持っていたい

昔は、頭に来ることがあると、夜眠れないほど、他人を憎んだりもした。特に学生時代は、自分のことを分かってもらいたい願望(承認欲求ともまた違う)が強くあった気がする。

あえて、小学生から高校生までのことを書く。

良くも悪くも、自分への期待値が非常に高く、今思うと本当に不思議なのだが、僕は「勉強も運動も出来る人」に対抗意識を持っていた。僕自身は勉強は人並みに出来たが、運動はダメで、そこに大きなコンプレックスを持っていた。

特に虐められていた訳でもなく、少ないながらも友人はいた。ただ、当然クラスのすみっこぐらしである。ただ、逆に中心にいるのも(目立つことが苦手なので)苦痛だったかと思う。じゃあ、良いじゃんという話である。

子供のじゃれあいの範囲内で、バカにされることもあったし、邪険にされることもあった。これは許せる・許せないという問題にすらならず、その場でスルーしてきた。

大きな怒りを覚えたのは、大学生の時だったと思う。サークル活動の話し合いの中で、自分と意見を異にするメンバーに強い怒りを覚えたのだ。

僕が所属していたのは、男性だけのサークルで、だからという訳ではないのだが、若干カルト宗教的な雰囲気があった。そこの雰囲気にどっぷり浸かっていたのだろう。

この時期に僕は初めて(ある一定程度まで)揺るがない自己を手に入れたのだが、同時にそれは他者への攻撃性としても現出した。

怒りは、自分の価値観が強く否定された時に生じる。ブラック企業に勤める上司が、辞めていく新人に怒りを覚えるのも、単なるリソースの問題ではない。自己の価値観が否定されたような気がするから、攻撃してしまうのだ。

これは結構危険なことで、「常軌を逸している」状態と言って差し支えない。

あと、ハリーポッター読み返したけど、スネイプ先生の評価って、最終巻で大きく変わるよね。場所とタイミングが合わなければ、彼は何も残さず死んでいた可能性もある訳で..死ぬ時にハリーが近くにいて良かったね。

結局その人がどんな人間なのかを、知ったような気になるのは、人間の傲慢さによる錯覚だ。

別にスネイプは良い人間ではないよ、というか良い人間なんていなくて、善性がどの程度、行動に結びつくかの程度問題に過ぎない。

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