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あの子は貴族 映画版を見た。

原作を読んでいたこともあり、主人公の「華子」にめちゃくそ感情移入してしまった。

育った環境や常識(とされているもの)に流されるのは、とても楽なのだ。

だけど、たまにそういったものを受け止めきれない人がいて...そういう人たちは、用意されたレールを外れていく。

一生懸命に周囲の期待に応えようとしたりするのだが、最後には、やっぱりそこから外れて、別の生き方を模索したり、迷ったりする。

これ自体は良いことでも悪いことでもない。

ただそのような現象がある、というだけだと思う。人間は基本的には自由だから、結局、自分の生きたいように生きていく。他者が生き方を強制するのは難しい。


あと、物語は「華子」目線だから、そこにどうしても感情移入してしまう。

わりと華子の結婚相手の家族は、露悪的に描かれているような気がする。

特に「青木幸一郎」の祖父は、かなりステレオタイプなお金持ちおじ様に描かれている。周りに金持ちがいないから知らんけど、あーいう尊大な金持ちって、本当にいるのかね?

ただ、「華子」と彼らの間に本質的な違いはないのでは...と感じた。

想像でしかないけど、件の祖父氏は、たまたま「周囲から期待されている自分のイメージ」と「自分の本質的なもの(端的に言うと『性格』のことかな?)」の親和性が高く、ああいう生き方・物言いになるのだと思う。

親和性が高い生き方は、成果にも結び付きやすいし、単純に居心地が良いから、それがなりたい姿に重なる。

だからこそ、彼らと「華子」に大きな違いはない。両者ともなりたい自分の姿を選びとって、自分の送りたい人生を送っている。

違いがあるとすれば、「華子」はたまたま、自分が生まれ育った環境とは、少し異なる生き方を、自覚的に選びとっている。(というよりも、結婚などのライフステージの変化によって、そうせざるえない状況になる。)

対して、それ以外の家族は、環境や今までの家族の文脈に即した生き方が肌にあって、無意識的に生き方を選びとった。それはオーダーメイドではなく、自分が生まれた時や幼少時に用意されたものであるが、意外に着心地が良かった。


自己の内なる声は、抑圧されればされるほど、勝手に湧き上がる。

自分を探すのに、海外に行く必要はないし、近所の図書館や映画館で十分である。

全然、纏まってないけど、感想である。



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