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ソ連がアフガニスタンから撤退したのは、なぜ

2021年8月、アフガニスタンからアメリカ軍が撤退し、中東情勢が揺らいでいます。ところで、1989年2月、ソ連がアフガニスタンから撤退しました。いい機会(?)なのでソ連のアフガニスタン侵攻から撤退についてザックリと書きとめたいと思います。

ソ連がアフガニスタンに侵攻したのはなぜ

アフガニスタンの社会主義政権を支持し、ソ連の影響力を保つためです。1978年、王族が主導する共和国政府に対し、社会主義の「アフガニスタン人民民主党」がクーデターを起こし、アフガニスタン民主共和国を樹立。それに対して「ムジャヒディン」つまりイスラム教の反政府勢力が蜂起。ゲリラとなって激しい内戦を繰り広げ泥沼になったところで、1979年、ソ連は軍事介入「アフガニスタン侵攻」を開始しました。

一筋縄ではいかないアフガン侵攻

軍事介入について、ソ連内部でも賛否が分かれました。国防省とKGBは軍事介入を主張。首相のコスイギンは「政府軍の支援が先」と反対。一方、アフガン政府内でも割れていて、アメリカと接触するアミーンが政権のトップに。アメリカはパキスタン経由でムジャヒディンに武器を与え内紛を支援。親ソ連のアフガンを失うわけにいかないソ連は「アミーン政権の腐敗」と「ソ連・アフガン条約に基づく軍事要請」を理由にアフガンへ「侵攻」することになりました。

社会主義政権+ソ連vs反政府勢力←アメリカという構造は「ベトナム戦争」にもたとえられます。

ソ連が撤退したのはなぜ

ソ連国内のパワーバランスの変化が1つの要因です。1985年、ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任しますが、国内は依然として「アフガン死守すべし」の強硬派が力を持っていました。そのためゴルバチョフは、大規模攻撃(85年)を仕掛けます。一方で、もともと軍事介入には消極的だったため、撤退も考えていました。86年にかけ、シュワルナゼが外務大臣に就任するなど、ゴルバチョフ派の党幹部が外交や安全保障の要職につき、バックアップ体制が出来つつありました。

撤退するまでの道のり

国際的な批判、戦況の泥沼化、石油の暴落による国力の低下が、撤退政策を後押ししました。ゴルバチョフはアフガンからの撤退を示唆。それにともない、アフガニスタンのトップを「和解派」のナジーブラーにすげ替え、内戦終結へと向かわせます。しかし、アフガン和平のジュネーブ協定の締結は難航します。ソ連の保護を求めるアフガン政権、介入をちらつかせるアメリカに苛立ったゴルバチョフは、「アフガニスタンの中立公正な政権を求めるなら、彼ら自身で決めさせればいいじゃん」とキレました

国内と国外のバランスをとりながら、ゴルバチョフはアフガン撤退を決定し、1989年2月15日、ようやくソ連の地上軍が撤退しました。

しかしながら、アメリカのムジャヒディンへの武器供与は続き、ムジャヒディンも停戦協定に応じず、ナジーブラーを緩く支援し続けていたソ連も崩壊し、さらにアフガンの混乱は続くことになるのでした。

その後のゴルバチョフ

さて。束の間、アフガンの憂いを取り除いたゴルバチョフは、西側諸国で人気者となります。一方、ソ連国内での支持は失いつつありました。そして、1991年8月19日、「ソ連の終わりの始まり」となるクーデターが起こります。

観光旅行をしていた一般人が見た、クーデター下のソ連とは。「観光旅行をしていたら、ソ連がこわれた」の続きをぜひご覧ください。



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