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ソ連が消滅して30年がたちました。

1991年12月25日。私はこたつに座ってミカンを食べながら、ソビエト連邦大統領を辞任することを告げるゴルバチョフさんの姿を、もの悲しい気持ちで見つめていました。これをもって、ソ連の赤い旗がクレムリンから降ろされ、そしてロシア共和国の三色旗が翻ったんでした。翌日、最高会議でソ連邦の消滅が確認されました。

そして2021年12月25日。もう一度あの日に出会うため、noteで振り返ってみます。

1991年の夏、私は観光でソ連へ行きました。ロシア極東からウズべキスタン、グルジア、ウクライナを回って、そしてレニングラード。「終わりのはじまり」となったクーデターに遭遇しました。

そのときのことを思い返すと、ソ連が解体したのをもったいなく思う反面、仕方ないよな、とさびしい気持ちになります。

クーデターはおこるべくして起こった?

旅行に出る前、ゼミの教授から「8月に行くのですか。何かあるかもしれませんね」とさらっと予言されました。実は、8月20日に「新連邦条約」が調印されることになっていたのです。

ソ連というのは15共和国で成る連邦国家でした。経済的に困窮し共産党に対する不満が高まる中、バルト三国(リトアニア・エストニア・ラトビア)やグルジアなど独立機運が高まっていました。西側諸国で人気のあったゴルバチョフは、実は国内では求心力を失い、軍やKGBなどの超保守派と、民主改革派の間を迷走します。そこで、落としどころが、この新連邦条約。共和国の権限を増やし、緩やかな連合を保って、とりあえずソ連の延命を図ろうとしたんでした。

いや、こんな条約が調印されてしまったら、共和国はみんな独立しちまう、ソ連がなくなるではないか!仕方ない、ゴルバチョフ、君には消えてもらおう、と調印前日の8月19日、側近のヤナーエフたちがゴルバチョフを逮捕拘禁するという暴挙に出たのです。

「ゴルバチョフさんが逮捕された」という報を、レニングラードで聞いた私たちは、不安と興奮に駆り立てられながら、「革命の都」をかけずりまわったんでした。そのときの様子はこちら↓


ソ連は文化の玉手箱

旅行前のイメージは「どこをとっても均一な、灰色の街」でした。それが良い意味で裏切られたのが、ウズベキスタン。無宗教だったはずなのに、イスラム文化が根付いています。メドレセ(神学校)は閉鎖されているとはいえ、バザールではイスラムの帽子を売ってるし、寺院ではふつうにお参りにきている人も。


グルジアに飛べば、かさこ地蔵のような屋根をもった独特な教会があり、敬虔なグルジア正教徒がお参りをしています。ウクライナのキエフに行けば緑のお城のような教会が建っています。なんという多様性。旅行者としては得した気分、でも1つの主義で1つの国にまとめるなんて無理だよなーと思いました。


ゴルバチョフさんの人気がなさすぎ

ソ連が解体した理由の1つが、ゴルバチョフの求心力が薄れたことだと思います。大統領は、直接選挙で選ばれるから権力も大きいのですが、ゴルバチョフは人民会議で間接的に選ばれただけなので、改革派の市民もしらけてしまったようです。どこへ行っても、西側のようにゴルバチョフ支持!だいすき!という人に出会えませんでした。

ゴルバチョフさんは就任直後、禁酒令を出したのですが、これも評判が悪かった。エリツェンのような酒飲みの方が、親近感がわいたのでしょう。

とりあえず、感傷にまかせて書いてみました。すごいよね、30年って。あのとき生まれた人がもう30歳になってるんだよ。「親戚の子とオクラは育つのが早い」ってほんとですね。

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