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一回限りに支えられる「おいしさ」

フランスに「カスレ」という郷土料理があります。地域によって具材が異なりますが、基本的には大量に敷き詰められた豆の上に羊肉のソーセージやガチョウ肉のコンフィが乗っかっている構造のシチューのことを指します。

僕はヨーロッパを旅していた時に訪れた南フランス、トゥールーズという街でこの料理に出会ったのですが、今までの人生で食した中でトップ3に入るおいしさでした。お肉はほろほろトロける柔らかさで、そのジューシーな脂が程よく豆全体に染み渡り、シチューは大変濃厚に仕上がりです。

そもそも「カスレ」の存在を知ったのは、トゥールーズのスーパーで買い物している時です。僕は一眼カメラを持っていたのですが、それに気がついた店員さんが「自分と同じカメラだ!」と話しかけてきて、カメラトークで大いに盛り上がりました。日本メーカーの製品を通じてフランス人の方と繋がりを持てたという点も非常に嬉しかったです。

その流れで連絡先を交換し、トゥールーズの名物「カスレ」の存在を教えてもらいました。またトゥールーズに来た時に一緒に食べよう!と約束し(もう一生来ることはないけどなぁ…と内心思いつつ)、その晩は一人で食べました。

その1ヶ月後、偶然にも再び南フランスに行く機会があり、「カスレ」食べたさに足を伸ばしてトゥールーズを再訪しました。すかさず一緒に食事する約束をした彼に連絡し、無事再開を果たしました。
もう二度と会えないと思っていた人と再会できた喜びのスパイスによって、「カスレ」のおいしさには一層磨きがかかっていました。

その時の「カスレ」↓

その後は彼と連絡を取っておらず、「カスレ」もそれ以後食していないのですが、この経験は不思議と1年半が経った今も麗しく心に残っています。なぜ今も変わらず麗しく残り続けるのか…。それは、おいしい「食事」と素敵な「出会い」という、一回限りの特殊な体験に支えられていたからだと思います。

『鬼滅の刃』で煉獄さんはこんなことを言っています。

「老いることも 死ぬことも 人間という儚い生き物の美しさとだ」

そんな人生と同じく、一回一回の「食事」も、一人一人との「出会い」も一回限りだからこそ美しいのだと思います。日々ともに過ごす家族との「食事」や「出会い」にも同じことが言えます。一回一回の「食事」の会話、時間、場所、料理、味、量、すべては一回限りのものです。毎日顔を突き合わせる家族も、一人一人がその時々で考えていること、思い悩んでいること、感じている喜びや楽しみなど全て一回限りのものと考えれば日々「出会い」だと言えます。

フランスの作家マルセル・プルーストは、『失われた時を求めて』の中でマドレーヌを「食す」たった一回の体験から過去の豊潤な一回限りの体験を追想します。われわれは意識せずとも、その一回限りの美しさを潜在的に知っているからこそ、この作品が世界文学の一つに数えられているのでしょう。

話は逸れてしまいましたが、「カスレ」のおいしさも一回限りの旅路での、一回限りの「出会い」(正確には二度ですが…)、一回限りの「食事」が生んだものなんだと思います。マドレーヌを食す経験に宿る豊潤さを描いたプルーストと同様に、二度と繰り返されない今日という日にこのnoteを書くことも、一回限りの豊潤な過去を追想する機会になりました。

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