一つ一つの価値

世の中は便利になりまして、月額1000円程度でCDを買わずとも音楽を聴き放題、レンタル屋に行かずとも映画は見放題。信じられないほど豊かな時代です。

僕もその恩恵を大きく受けている一人ですが、どうも少し違和感があるのです。曲や映画が大量に溢れているからこそ一曲一曲、一作品一作品を深く味わう、味わい尽くすことが少なくなってしまったと感じるのです。昔はCDの発売日にCDショップに駆け込み、急いで帰宅し、音楽プレイヤーに取り込んだものです。その経験も含めて一曲を貪るように聴いていました。音楽に心酔していました。今も同じ曲を何度も聴くことは多々あるのですが、この音楽体験には到底及びません。

便利さのために削がれてしまった豊穣な鑑賞体験は惜しいものです。これは最近考えている文学にも通じる考え方だと思います。

この世界は基本的に論理で動いています。しかし文学は論理では説明できないことを描きます。つまり、文学は世の大部分を覆う論理からこぼれ落ちた体験を丁寧に拾い上げます。その体験は時空を超えて二度と繰り返されることのない一回限りのものです。

この考えは小川洋子さんは『物語の役割』に拠っています。

小説を書いているときに、ときどき自分は人類、人間たちのいちばん後方を歩いているなという感触を持つことがあります。人間が山登りをしているとすると、そのリーダーとなって先頭に立っている人がいて、作家という役割の人間は最後尾を歩いている。先を歩いている人たちが、人知れず落としていったもの、こぼれ落ちたもの、そんなものを拾い集めて、落とした本人さえ、そんなものを自分が持っていたと気づいていないような落とし物を拾い集めて、でもそれが確かにこの世に存在したんだという印を残すために小説の形にしている。そういう気がします。

感動的ですらある文章です。聴き放題、見放題は経済という論理が生み出したものですが、豊穣な鑑賞体験は論理からは削ぎ落とされてしまいます。(と僕は感じます) 少なくとも僕は論理から逸脱するところに鑑賞体験を求めるべきなんだろうなとつくづく思います。

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