心で五感を働かせる

最近不思議に思っていることがあります。音楽も映画も旅の記憶も、全て想像力を働かせることによって心で再生できるということです。

人はモノに物理的に接することなく、想像力を働かせることで心にそれをありありと実体のように目の前に呼び起こすことができます。記憶している音楽も、印象的な映画のワンシーンも、旅で訪れた場所も、全てその場にいながら呼び起こすことができます。当たり前なことですが、改めて考えてみると凄くないですか…?

日本語には「心眼」という言葉があります。目を閉じながら心でモノを見ることができます。小林秀雄はベルクソンを引用して

「目があるから見えているのではない。目があるにも関わらず見えているのだ」

と言っています。人間は目ではなく、心でモノを見ることができます。

もう一例挙げてみましょう。

加藤周一『文学とは何か』に、藤原定家の和歌を引きながら、このことについて的確に述べている一節があります。

風の上に星のひかりはさえながらわざともふらぬ霰をぞ聞く (藤原定家)

近代ヨーロッパの詩人が、ギリシアのかめをみつめながら、「聞こえぬ音楽」を感じたように、中世日本の詩人は、星空をながめながら、「ふらぬ霰」の音を感じたにちがいありません。

中世日本の詩人も近代ヨーロッパの詩人も、「見」ながら音を「聞」いています。

古今東西、人間は人間である限り、心を働かせて知覚していることがよく分かると思います。その他「触覚」「嗅覚」「味覚」についても同じことが言えるでしょう。

僕にはこのことが不思議で不思議で仕方ありません。この不思議について皆さんはどうお考えでしょうか?

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