先生が残してくれるもの

Facebookの通知で、今日は亡くなった大学の指導教官の誕生日だというお知らせが。

大学生の頃は恥ずかしながら学問への興味が皆無で、飲み会などで先生と同じテーブルになっても研究に関する話を一切したことがなかった。思い返せばそれは手に入れ難い貴重な機会であり、縦横無尽な好奇心にまかせて色々語ればよかったと常々後悔している。

そんな不真面目学生な僕の心にも、ある日先生が伝えてくれた太宰治の一節は深く根を下ろしている。

「もう、これでおわかれなんだ。はかないものさ。実際、教師と生徒の仲なんて、いい加減なものだ。教師が退職してしまえば、それっきり他人になるんだ。君達が悪いんじゃない、教師が悪いんだ。じっせえ、教師なんて馬鹿野郎ばっかりさ。男だか女だか、わからねえ野郎ばっかりだ。こんな事を君たちに向って言っちゃ悪いけど、俺《おれ》はもう、我慢が出来なくなったんだ。教員室の空気が、さ。無学だ! エゴだ。生徒を愛していないんだ。俺は、もう、二年間も教員室で頑張《がんば》って来たんだ。もういけねえ。クビになる前に、俺のほうから、よした。きょう、この時間だけで、おしまいなんだ。もう君たちとは逢《あ》えねえかも知れないけど、お互いに、これから、うんと勉強しよう。勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記《あんき》している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ! これだけだ、俺の言いたいのは。君たちとは、もうこの教室で一緒に勉強は出来ないね。けれども、君たちの名前は一生わすれないで覚えているぞ。君たちも、たまには俺の事を思い出してくれよ。あっけないお別れだけど、男と男だ。あっさり行こう。最後に、君たちの御健康を祈ります。」すこし青い顔をして、ちっとも笑わず、先生のほうから僕たちにお辞儀をした。

<引用>


お別れの挨拶をするこの先生と、永遠のお別れを強いられた僕の指導教官とが図らずもリンクしているように感じる。

先生が学生に残してくれるものはなんだろうか。英語の文法か、数学の定理か、古文の読み方か。もちろんそうなのだが、同じく大事なのは、そういった知識を伝達する本業から脱線した余談なのだ。案外、脱線話の方が強烈に学生の記憶に残ったりするもんだ。

先生は、知識を伝達するロボットではなくて、生徒の人格を涵養するような自身の哲学を存分に発揮するところに大きな役割があるのだ。

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