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栗木京子「中庭」から読む、心地の良い沈没 ~天敵を持たぬ妻たち~

「天敵を 持たぬ妻たち 昼下がりの
茶房に語る 舌かわくまで」ーー

栗木京子さんの歌集『中庭(パテイオ)』に収録されている歌のひとつである。
一見して、なんてことはない主婦たちの平凡な日常の一コマを切り取った一首であるが、私にはこの句に潜む栗木氏の葛藤、忌避、それからかすかな嫌悪感まで感じられてしまう。

それは、結婚を間近に控えた“プレ”花嫁という自身の立場にも拠るものかもしれないが、私は、当時結婚を終えて主婦としての日常生活に染まりつつあった栗木氏の感性にぴたりと一致するような感情を覚えた。それも“プレ”花嫁、という浮かれた名前と相反するような切迫した危機感、ある種の恐れともいえる感情だ。
それはすなわち、安穏な日常への沈没である。

今時、結婚によって“安穏な日常”が手に入る、とは言い難い情勢であるし、“結婚に拠らない幸せ”を各方面が喧伝している中での反論という訳でもないのだが、女性が婚姻を通じて(ステレオタイプの)幸せ、あるいは安心感、それから人によっては一種のステイタスを感じることは間違ってはいないだろう。

かくいう私も、配偶者がいることの安心感、そして何より心から愛する人と生涯を共にできることへの喜びは言うまでもない。

始めに断じておくが、これは結婚に対する否定ではないし、結婚に拠って得られるありとあらゆる利点を捨象してまでも通したい持論という訳ではない。
あくまで、栗木氏の歌に見えた“主婦”、“妻”というイキモノへ変貌しかけている女性の葛藤への共感である。

“日向臭さ”への惜別

栗木氏は以前、『水惑星』の中でこのような歌を詠んでいる。

「今しばし 日向臭さを持ちゐたし
濡れしものみな美しき世に」

『水惑星』より

少年、少女の柔らかい垢ぬけなさを思わせる「日向臭さ」を今しばらく持っていたい、というこの句は、吉川宏志氏の解説を踏まえると“毅然とした小女性への憧れと、否応なく成熟へと向かわざるを得ない矛盾”を表したものである。
この「日向臭さ」の対極にあるのが、成熟した女性である「天敵を持たぬ妻たち」、つまり家庭という庇護の下で、女性としての揺るぎなき地位を得た主婦たちを指していると考えてよいだろう。

もう二つほど、栗木氏の歌を引用したい。

「庇護されて 生くるはたのし 
笹の葉に 魚の形の短冊むすぶ」

「女らは 中庭につどひ 風に告ぐ
鳥籠のなかの情事のことなど」

閑話休題。

私は以前、学生時代のインターン仲間に向けた文章の中で「駐妻にはなりたくない」と書いたことがある。
駐妻とは、商社等に勤める夫の海外駐在についていく妻のことで、そのステイタスへの羨望と一種の揶揄をこめて付けられた通称である。

学生時代、就職活動に向けた情報収集をする中で、総合商社一般職の人気がべらぼうに高いことを知った。それは一般的なメーカー総合職をも超える給与の高さ、9時‐5時の定時退社、大手ならではの福利厚生、社内における優秀な“結婚相手候補”との豊富な出会い、それらを総合的に勘案して“コスパの良い”就職先だったからである。

もちろん、「自身の語学力等のスキルを活かして…人をサポートすることにやりがいを感じていて…」という理由で一般職を志願する就活生もいたと思うが、あくまでそれはエントリーシートに書く表層上のお話。
かくいう私も「体育会マネージャーの経験を活かし、縁の下の力持ちのような立場で大規模なビジネスの推進を…」等と話した記憶があるが、根本的な志望動機はだいたい上に書いたようなものである。

平たく言うと、大手企業の圧倒的な権威の下で、“コスパ”のよい就職ができるものと考えていた(非常に失礼なことを言っているのは承知だが、一般職を志願する上でこれらが頭をよぎらない女子学生などいるのだろうか?)
また、今時一般職への応募要件が女子に限定されている時点で、あながち間違った推測ではないと思う。

そして、これら一般職への憧れをさらに上段階へシフトしたものが「駐妻」の存在である。
夫の通常の給与に加算される海外手当、会社から手配された住宅などで、語学や趣味、ショッピングに励みながら海外生活を優雅に楽しむ。これぞ憧れの主婦像、と考える人も少なくないだろう。

ただ、商社一般職には応募した私が、「駐妻」になりたがらなかったのはどうしてか。
本当に一般職の延長線上に駐妻があるのか、というのはさておき、私は違和感があったのである。もっと端的に言うと、庇護を与える主体が「会社」から「夫」に移ることで、本来確保されるべき自由が侵食されるのを恐れていたのだ。

その恐れは、まさに栗木氏が「鳥籠」と表現したのに相応しい。
世間的に見て、何不自由なく、物質的にも“豊かな”生活を送ることができる一方で、自身のキャリアを寸断もしくは一時停止され、身寄りのほぼいない外国で、夫を第一としたコミュニティへの参加を余儀なくされながら「妻」としてあるべき立ち居振る舞いを求められる日々。それってなんだか恐ろしくない?

私にも「駐妻」となった友人がいるし、彼女らを否定する意図は金輪際ない。しかし、主観的に見ると、自分のナイーブな内面では到底耐えられない「管理状態」に置かれるのと同義だな、と感じてしまうだけだ。

「天敵を持たぬ妻たち」への恐れがここにある。

「中庭」への道は、心地よい沈没である

「駐妻」への恐れ、と書いたが、それは今の私に無縁ではない。
妻になることによって、“中庭につどひ”、舌がかわくまで“昼下がりの茶房に語る”という行為自体が、独身であったこれまでとは別の意味を持ってくるからだ。

もし育休等で、自分の稼ぎが入らない状態で、配偶者にただ養われている状態となったら。夫の職種や収入をただ一つのよすがにして、それだけに頼らざるを得ないシーンに直面したら。
お気に入りの喫茶店にぶらりと入り、大好きなパン・オ・ショコラを片手に似た立場の友人と噂話に花を咲かせている自分を、「鳥籠のなか」と表現してしまいそうな自分がいる。最も、その鳥籠の中で、自分は非常に心地よさそうにしているのだが。

お互い困ったときに支え合うのが夫婦の本質であるし、それができると確信した上で結婚に踏み切るものだと思う。
私の配偶者も、私が無職の状態でカフェに入ることを止めないだろうし、むしろ「楽しんできてね」と快く送り出してくれそうだ。

それを許してくれる相手を、私は無意識的に選んできたのだろうし、世間一般的に見ても何も間違ったことではない。
ただ、その状態ー夫の優しさ・収入・ステイタス諸々に甘んじている状態ーにあり続けること、それが“Do”ではなく“Be”となったときに、私は自分の置かれている状態を客観視できるのだろうか。
心地の良い毎日に沈没してはいないか、一抹の不安を感じずにはいられない。

その頃の私に「日向臭さ」を見出すことはきっと難しいのだろう。

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