いろいろ振り返っていたら最後にエヴァ。

年齢を重ねるとふりかえることがふえるなあって最近とくに感じていてそれは自分がさいきんそうだなあと実感しているからなんだけど、これは何度も何度も参照したり考えたりしているテッド・チャンのSF小説「あなたの人生の物語」に書かれているような、時間概念を不可逆直線ではなくて面状の円として認識していればどの時間のできごともすべてが“いま”といえる。何のこっちゃと思う方もそうそうと思う方もいるとおもうけど、そうかんがえるだけでも気が楽になることがあるというのは、池袋東口の西武の前にしゃがみ込んでいたホームレスの男性がずーっと独り言を言っていて、誰かと話していて、もしかしたら彼はそういう時間のとらえ方をしているのかもしれないし、やがてはぼくもそういう認識に囚われてしまうかもっておもってこっそり寒くなった。役者のばあい、なんて広い定義ではないけど、すくなくともぼくが役者をしているときはひとりの時間、何度となくひとり言を繰り返して、目の前にいない対話相手にやりとりの練習をしたり感情の有無を確かめたりするんだけど、もちろんセリフの練習だから稽古や本番に向けての準備だったりするんだけど、それがだんだん、というか子どもの頃からやっていたことだった気もしていて、セリフの練習は果てしなく未来に向けた練習なんだけど、子どもの頃からやっていたのは、過ぎてしまった誰かとのやりとりで、自分がどうしてもっとうまくあそこでこう言えなかったんだろうとか、このときにこう言い返してたらきっとこうなって、こうなって、今の悔しさやかなしさはなかったはずなのに、とか、あれ言わないでこう言ってればあの人は傷つかなかったのにとか、そういう取り戻しをやっている。家で一人でいるときにふと気がつくとそういう昔のやりとりを思い出しているときがあって、ひともりあがりしたあとに「詮ないことよねえ」と我に返って赤面する。意味ないってわかってるんだけどどうしてやっちゃうんだろう。

いまSF界隈でざわざわしているのは非英語圏で書かれた小説「三体」がヒューゴー賞を獲ったということがまずはじまりで、「非英語圏のヒューゴー賞受賞は史上初」というすごいことで、ヒューゴー賞というのはアメリカの有名なSFの文学賞なんだけど、それはそれはビッグニュースで、中国SF小説が受賞したというニュースを2015年に目にしたときから、ほんとどんな作品なんだろうってずっと気になっていたんだけどそれが先日7月5日に邦訳版が刊行されて、さっそく読んだ。その作中で、とある学者が「年を取ると昔話が増えるのよね」的なことを言っていて、そこだけなぜだか内側から滲んでくるような体験型同意、つまり禿同というか、そんな気持ちになったというのもあっていまこれを書いている。

ほろびての「公園まであとすこし」を上演したとき、僕は初めてアフタートークを開いて、自分でこの方と話したい、という方をふたり、ゲーム作家の米光一成さんとアニメ評論家の藤津亮太さんをお招きしてそれぞれお話をさせていただいたんだけど、そもそもアフタートークをやりたいなと思ったのはもう少しさかのぼって、「つながらない <null> を巡るこどもとおとなのものがたり」を上演したときに、作品とその周辺のことをもっといろんな人と話したいと思ったからで、「つなヌル」のときはそう思いついたのが本番直前のことだったのでぜんぜん実現できなかったけど、今回もきっと話したいことがあるだろうと書いている途中で感じて、強い視点をお持ちの個人的に尊敬している方にお声がけをしてお話をした。藤津さんとのアフタートークで藤津さんが「これは記憶の話ですよね」と話されて、全くその通りで、その切り口を引いてくると、つまりそういう側面が僕にはあってそういうことをずーっと考えている気がする。

「小説」というものも大きくとらえれば記憶の話だとかんがえることができるし、もっというとこうして文字に書き付けられているものはすべて、「記述=記して述べる」とあるだけに書き手と読み手は同じ時間軸を生きてはいない。読み手が「読む」という能動的な行動をしたときに初めて読み手の中に、記述に込められた時間が動きはじめるし、読み手のペースによっても時間の流れ方は大きく変わってくる。一方、舞台やライブは目のまえで観客と演者が全くおなじ時間をすごしながら、表現をしていくものなので、大前提には「同一時間の共有」がある。そこに「記憶」を織り込むやりかたはいつも考えていることなのかもしれないなあと思う。それって、作中で記憶を扱うこともそうだし、作中人物と観客でできるだけ記憶を共有できたらなというところにもあったりする。

「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の冒頭10分が昨日公開されたけど、(余談だけどこの「エヴァ」は「ヱヴァ」ではなくて「エヴァ」ね!)ダイジェスト映像を見て気持ちが昂ぶったのちに流れた新作10分はとてもやばい。とっても。さっきTwitterにも書いたんだけど、っていうさっきっていつだって話だけど、それは投稿時間とか見てもらって「さっき」を察してもらうとして、新作映像を見ているときはいろんな記憶がわきあがってきて、もはや個人的な体験として見ていて、泣いてしまう。いろんな方の言説でも充分あると思うけど、あらためて体験ベースで言っても「新世紀エヴァンゲリオン」が放送された当時はまだ「オタク」に対する風当たりが強かった時代だったし、エヴァが社会現象になったとき、ファッション誌でCorneliusだったかが、「とはいえ劇中のクラシックがダサい」とか書いてた記憶もあるし、Radioheadの「KID A」とか、宇多田ヒカルと浜崎あゆみと、そういう波がくる前の95年〜96年に、埼玉県の片田舎で、まわりにはオタク趣味を隠しながら見ていたあの頃、心の中にふつふつとわきあがる興奮が、くすぶってずっと消えてくれない興奮が、たしかにあのとき自分の中にはあったんだってつい思い出しちゃって、って結局また記憶の話だけど、それからぼくはいろんなことに触れて生きてきたけど、庵野監督はいろいろ言われながら旧劇場版を作りいろいろ言われながら、新劇場版を作り、大きく流れが変わった「破」を作り、ぼくはそれを見てびっくりして、「Q」でぼくはポカンとして、これまた終わんないんじゃない?っておもったけど、でもそういうのが、もしかしたら本当に来年、終わろうとしているとかかんがえると、ある意味、ぼくも「エバー」(葛城さん的呼び方)と一緒に思春期以降をすごしてきて、ことあるごとにリアルタイムで浴びてきた人間として、ひとつの叙事詩のおわりに立ちあおうとしているのかもしれないっておもったら、目の前の圧倒的なアクションやケレン以上に、「すげえなあ、庵野監督、あきらめないよなあ、ほんとすげえ」とかメタ的な見方をしてしまって冷静になれそうにない。「エヴァ」はぼくの人生に流れるひとつの線であると同時に、庵野監督にとってはもっとはかりしれない、想像つかないから言及する言葉も持っていないけど、人生とかそういうもの以上の、呪縛とかそういう二文字とかでもなく、監督の輪郭をはみだしながら押し込めながらはみだしながら併走したり追い抜いたり追い抜かれたりしながら過ごしてきた日々を積み重ねて来たのだろうし、ぼくは多少知恵がついて、画面に込められた意味とかを多少は読み取ろうとするようになったいまでも、はっきりいえるのは「んなこたどーでもいい!受けとめろ、すべて!」みたいなことで、ゆっくりと呼吸をしながら画面を見つめることがきっとぼくのできる精いっぱいなのでしょう。いまのエヴァがテレビシリーズから遙か遠く離れてしまった、ある意味二次創作的であることも、自分の中の記憶を刺激する要因になっているのかもしれなくて、つまり「あのときこうしていれば」というくりかえしを「エヴァ」も実践している作品であったりするから、そういうところも好きなんだとおもう。

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