SF小説と映画と好きの話を

 『なめらかな世界と、その敵』(伴名練/早川書房)を読んだ。伴名練を最初に知ったのは百合SF短編集「アステリズムに花束を」の時というか、だから半年くらい前で、実際に読んだのは2ヶ月くらい前だったかな。先月だったかな。「彼岸花」という題名のその短編は往復書簡めいた形式で物語が綴られていて、2人の女性のやり取りの端々から、徐々に自分や社会のありようが剥き出しにされていくというか、明らかにされていく、というのは読んでいてワクワクした。また、大正文学的な文体もたいへんに雅で、ひたすらたのしかった。で、『なめらかな世界と、その敵』も、各短編の設定が手が込んでいて、読み進める度に発見があるし、多くのSF小説を下敷きに書かれてるんだって分かる作品がいくつもあるし、めちゃめちゃグッド!だった。おもしろいSF小説を探しているんだったら、最近では迷わずこれを薦めます。『三体』よりずっと読みやすいと思う。(『三体』ももちろんおもしろいけど)。『なめらかな世界と、』に入っている『美亜羽へ贈る拳銃』と『ひかりより速く、ゆるやかに』を読んで、やっぱりSF好きだっ!ってなった。っく〜〜〜って、なった。

 最近、誰かの「好き」という話を聞く機会がいくつかあって、その気持ちの尊さにあらためて感動している。たぶん「好き」ではなくても、ぶっとい感情を携えて、前を向くことに、いろんなことを気づかされているんだと思う。無闇なものじゃなくて、「これ」といったものに。なので、自分も、そういう気持ちは引っ込めずに、出していこう。

 『魔法少女まどか☆マギカ』の再放送が先月までやっていて、偶然11話と12話を連続してリアルタイムで見たんだけど、やっぱり多くの人にとってそうであるように、僕にとってもすごく大事な作品なんだなあれは。社会現象がとか、魔法少女ものを逆手にとって、とか、そういうアニメ史的な理由ももちろん大事だし、そういう重要な作品であることに間違いはないんだけど、それとは別で。

 昔話。小さい頃に見て、よく覚えている映画は、母が好きだった『サウンド・オブ・ミュージック』と、深夜の教育テレビ(?)で放送していた『エレファント・マン』。どちらも小学校3、4年生の時に初めて見たんだけど、後者は特に、エレファント・マンの見た目も子どもにとってはすごく怖かったし、何よりクライマックスがショックで、小さい自分の想像のはるか先にある「死」を考えていたら、いとも簡単に寝られなくなってしまい、居間にいた母に泣きついた。その時ぼくは「死にたくない」と泣いたんだけど、それを聞いた母は、「安心しなさい、大丈夫よ」と明るく笑って背中をさすってくれた。

 子どもは、たぶん親が予想もしてなかったようなところから情報を拾ってくる。それに対して親がどう答えていくのか、っていう日々は、ハードなフリースタイルバトルだなあと、子どもも伴侶すらいない自分が考えるんだから、実践している人は偉い。一方で、橋本治が書いた『ふらんだーすの犬』に似たような、そんなニュースが流れてくると、何て言うか。

 ここのところ続けて『ミスミソウ』の漫画と映画『惡の華』を見たので、子どもたちの体験をクラクラする風圧で浴びているなって思ったけど、こうして書いてて思ったのは、僕は、野崎春花や春日高男としての視点を失いかけてるのかもなというか。逃げ場のない人生の檻って感じていたときもあった、ある時期の人間にとっては全てであり切実であるはずの「教室」を、僕はいつのまにか外側から見ているようになっていて、それは成長と呼んでいいのか、摩耗と呼ぶのか、もうよく分からない。

 25才くらいのときに書いた高校生の物語(上演作品)があるんだけど、それを今、僕はどういう風に感じるのだろう。物事に対する冷静さは、対象との距離とも関係がある。その距離が、伸びていくだけじゃなくて、縮めたりもできるようになったら、いいのだな。「好き」や、何かに向かっていく力づよさも、対象との距離だな。ああ、同じ話だ。

 漫画『ミスミソウ』と映画『惡の華』を、僕はつまりちょっと離れたところから見てしまったのだけど、それはたぶん言い訳で、この2つの物語があまりにも起こる出来事が過酷すぎて(特に『ミスミソウ』)、例えばアメリカ産ホラー映画とかスプラッター映画的な娯楽的なエンターテイメント的な消費もできず、粛々と心を削られるような作品だったので、自分で作品と距離を取って自衛したのだと思う。『惡の華』も、漫画やアニメは大好きだし、今回の映画もすばらしい仕上がりだったのだけど、人間がやると言い逃れの効かないというか、脱臼する暇もないというか、やっぱり目の前に突きつけられ過ぎるので、大変だ。

 そんな流れで『JOKER』を見たから、さらに極まった。DCのヴィランとしてのジョーカーが、最悪で最高だと感じるの映画はやっぱり僕はヒース・レジャーのジョーカー(『ダークナイト』)なんだけど、『JOKER』のジョーカーは、そういう次元じゃなかったというか。ジョーカーの話なんだけど、ジョーカーっていうあだ名を選んだある男の話としての強度がもう、高すぎてこれはまあ、ヒグマの皮を被ったヒグマドンということにしておこう。

 ん? うん。

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