波及する

『自由が上演される』を読んで、過激なエピソードの一つの引用元として触れられていた『劇的言語』(鈴木忠志・中村雄二郎)を読み始めました。だいぶ前に古本で手に入れて積んでいたのでしたが、自分のような無学者にとってもおもしろい演劇論の数々。理論と実践を両軸に据えているアーティスト(急に主語が大きく)は強度が違う、足を向けて寝られない、といった感情と共に読んでいます。

僕は正直者ではいられなかった幼少期を過ごしてきたので言葉と身体の距離があると感じているのですが、誰だってそうだと思いたい。だから演劇には戯曲と演出、声と肉体があるわけで。その距離の遠いものに僕は目を取られてしまいます。

『劇的言語 増補版』には下記のような鈴木忠志さんの発言があります。

鈴木 <中略>ヒステリーの発作を見ると、圧迫感を受けて、同化される場合がある。歌舞伎や能の場合もそれに似ていて、人為的な、非常に不自然な身体表現ですよね。中腰になっておしりを突き出して。腹から声を出して……。そこから発散する生理的エネルギーが観客の生理的なリズムに訴える。しかもそれは、呼吸を伴ったリズムですね。義太夫とか浪花節なども、意味を追っていたらつまらないわけで、呼吸で聞かないとわからないところがある。あいつとは呼吸が合うと言うように、日本人の一体感、アンサンブルは呼吸によっているのですね。そして、その呼吸というものは、自分では調整不可能なメトロノーム的な心臓のリズムとは違って、例えば息をグーッと詰めれば苦しい感じが出るし、鼻で上手にやればなめらかな発声ができるといった具合に、人為的にできる。支配できるものです。そういうふうに呼吸のリズムを支配するとか、軀に人為的に抑圧をかけるとかして、相手を生理的に同化させてある効果を得ようとする。相手の気持をこちらに感染させる、かぶれさせるのです。《語り》は《騙り》なんですね。

『劇的言語 増補版』P48 朝日文庫

上演で俳優を”実際に”殴るなどラディカリズムで知られた前衛劇団のリヴィング・シアターを引き合いに、リアリズムとはという思索から、日本の演劇表現には俳優の肉体の緊迫感で観客を巻き込んでいくことがある、ということが語られ、上記の発言に流れていくので、つまりは実際にやらんでも十分同等以上の効果は得られるじゃないか、ということなのですが、これを読みながら僕の思考は寄り道をしていきました。

台詞を伝えることと、身体を用いて伝えることは違うのではないかということは僕もずーっと考えていて、稽古中に俳優と身体の状態について話し合ったりしています。鈴木裕美さんは「引き裂かれるんだ」という言葉で伝えてくださいましたが、例えば現代口語演劇でいうと、口から出た言葉と、それを言わざるを得ない状況と、言いたくない身体、が、集まっている状態。コンフリクトを起こしているものを生じさせるにはどうしたらいいのでしょうか。そういう部分に自分は興味があるようです。

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