黄昏は外の世界で|認知症の2人についてと|いきをつく

免許を合宿で取ろうと思い立ったのは8月ごろでした。とにかく安く、でも安全に安心して参加できて、短期間に終わるところを急いで探しました。いろいろ調べると10月あたりはオフシーズンに当たるらしく、繁忙期の年明け〜3月や7月〜8月と比べても10万円ほど安い。これだ、と決めて、申し込みました。

うまく書ける気がしないし、書くかやめるかずっと悩んでいたのですが、書くことにします。極めて個人的な話です。が、僕個人の話ではなく僕にまつわる話です。長くなりますが、よろしければお付き合いください。

母の認知症は10年以上前に始まりましたが、進行は遅く、穏やかで大きな困難はありませんでした。定年退職した父が「今まで放っておいて迷惑をかけた分、これからは償うつもりだから」と常に、本当にいつも一緒に行動していました。

僕には姉がおり、結婚して細川姓から外れ、2児の母となっています。懸命に子育てをしていてすごいなと思います。その姉から、一昨年の秋頃に電話がありました。「最近よく警察から電話来るんだけど、お父さんのこと聞いてる?」。父の様子が変だと言うのです。お金がなくなったと交番に行き、警察から姉に確認の連絡が来るのだと。両親の住んでいるマンションへ行き、父と話をしてみると「作話」という状態が時々出ているようでした。作話というのは認知症の症状のひとつで、何かのきっかけで引き出された記憶が目の前の事実となってしまうもの、記憶障害のひとつです。「お金がなくなった」と、何度も警察に駆け込んで、警察から僕にも確認の連絡が来るようになりました。父に、なくなったお金はどういうお金か、詳しく質問しても要領を得ません。でも、真実であるように話し続けました。もしかしたら、ということで、昨年3月に父を病院へ連れていきました。診断結果はアルツハイマー型認知症。担当の医師からその単語を聞いても父は特に反応はなく、そのとなりで僕はショックを受けていました。呆然として、先生に「母も認知症なんですが、これからどうすればいいんでしょうか」と聞きました。先生は「それは家庭の問題だから、よく相談して」と言いました。親は認知症で、息子は収入の安定しない演劇やライターをやっている。姉は自分の家庭に忙しい上、親との関係もあまりよろしくない。未知の世界は不安に満ちていました。診断後も父は、母の認知症のことは気にしながら、自身の病気に無自覚なように、気ままに暮らしていました。時々、何かのきっかけで作話が始まり交番に行く。警察から僕や姉に連絡がくる。警察に事情を話す。謝る。というサイクルは続きます。姉が、「火の元と車の運転だけはどうにかしないと」と言いました。父は車を常用していました。親は2人でマンション暮らし。ガスコンロはIHにするとして、車の運転は確かに怖い。父は運転好きで、僕の幼い頃から色んな場所に車で連れて行ってくれました。夏には両親の故郷である岩手県に、当時住んでいた山口県下関市から車で行くこともありました。九州全県へ車で旅行に連れて行ってくれました。その父に免許返納の話を持ちかけました。当然怒って聞く耳を持ちません。「万が一でも事故を起こしたら取り返しがつかない」と言っても、父は「バカ言うんじゃない。どれだけ運転してきたと思ってる。事故を起こすような運転技術じゃない」。あれこれ言葉をかわした後、現状を受け止めてもらえたらと思い「アルツハイマーなんだって。病院で診断結果も出てるんだよ」と伝えても、「親のことを精神がおかしくなったと言いたいのか」と怒る。親は団塊(よりやや前)の世代です。『恍惚の人』の時代。認知症はかつて痴呆症と呼ばれ、その前には「ボケ老人」や得体のしれないもの、としてひどい扱いを受けてきました。父も認知症に対してざっくりしたネガティブなイメージしか持っていないんだなということがわかりました。

免許に関してはとにかく埒が明かない。我が家の宗派である浄土真宗の住職から電話があり、「お父さまが墓参りに来る途中で迷われて、2時間くらいぐるぐる走っていたそうです。ちょっと気にかけておいてください」ということもありました。長年行きなれた道も迷ったりしているのか、と受け止めました。ある日、姉が「権威のある人の言葉だったら聞くんじゃない?」と言って、義兄の運転する車で、家族総出で免許センターへ行きました。僕も当初は、警察の方と話して免許返納のことを自分ごととして考えてもらえたらいいな、と思っていました。いざ担当の人と面談が始まると、どうも相談ではなく、「即日免許返納が前提」の説得でした。父は返納する理由はない、いやだと抵抗し、2時間が経ちました。「このまま帰るなら後日通知が送られて、免許失効処分となります。今、返納すれば、運転経歴証明書をお渡しします」。警察の担当の方から、まるで犯人に向けるような視線が父に注がれているのを、ただ黙って見るしかない自分。父は渋々了承し、免許を返納し、肩をがっくり落としながら運転経歴証明書を受け取りました。「体の半分を失った思いだよ」とつぶやいていました。姉はその日のうちに、父の車を回収し、すぐに売却。父からはその後数週間、「俺の車がない。どこにやった」という電話が続きました。

母の症状は進行がゆるいのですが、父の症状は急激に進んでいるようでした。姉と相談し、母のケアマネージャーと相談し、まず介護保険を使えるように、一昨年の暮に父に要支援1の認定検査を受けてもらい、アルツハイマーの診断が出た後に要介護1へ切り替えの検査を受けてもらいました(ここでも長い道のりがありました)。姉といろいろと話し合いました。が、姉からは自分の家庭がまず優先、父と母の対応を主に立ってするのは難しいと告げられました。同じ話を何度もすることや、それを否定せず聞き続けていくのは困難や落胆を伴います。僕が主に対応することにしました。長男だし。ただ、僕が演劇で全く動けなくなるときがあるので、その間、フォローをしてもらう、という形を取り、しばらくあれやこれやとやっていました。

昨年秋前に、可能性として両親2人を施設に入れるのはどうだろうと、姉弟どちらともなくから話題が出ました。僕も公演のスケジュールが詰まっていたし、コロナのこともあり、稽古中はリスクを冒して実家に戻るのは避けたいと考えていたし、プロの方が常に付いている場所の方が安心できるのじゃないかと思ったのです。ケアマネージャーに仲介業者さんを紹介してもらい、施設見学をしました。要介護のレベルによっても入れる施設は違うし、資金的にシビアな事実もあるし、どう頑張ってもここという施設を2つにしぼり、11月に姉の車で見学に行きました。親のマンションから車で3時間。山間部。一つは新設、一つは入居者がすでにたくさんいるホームでした。コロナということもあり、外出は基本厳禁。住環境に関しても思うところがいくつも出てきます。姉の気持ちはわかりませんが、僕は「ここが終の住処になるの……?」と決心が付きません。「人気なので、早くしないと埋まっちゃいますよ」「仮押さえはしておきませんか」という仲介さんのお話もあり、施設の方の印象もよかった新設の方を押さえてもらうことにしました。ただ、そこでもまだ僕は、「本当に2人をここに入れる必要があるのかな……」と迷いが消えませんでした。落ち着いている時は2人で難なく暮らしているように感じていたからです。

今年1月、舞台の稽古中に母が入院したと連絡を受けました。転倒して頭部を骨折したとのことでした。稽古終わりで父の元へ行くと、父が興奮して母を探しています。僕が「入院したよ」と伝えても、何度も母の行方を聞いて、外へ探しに出かけます。帰ってきて「おーい、母さん?」と部屋中を探します。僕は可能な限り否定の言葉を使わないようにして、話を逸して、就寝してもらうのを待ちました。これまで聞いたこともない、鉱山地帯で人事部として働いていたころの話を聞いたりもしました。翌朝、入院先に連絡をして母の症状を聞くと、打ちどころが悪くて10日は入院が必要だとのことでした。コロナのこともあり、3日後に母の診断結果を聞くことになりました。父は常に母を探しています。僕が一緒にいる時に何度説明しても「あれ、お母さんがいないな」と上着を着て外へ出ようとします。入院先から、父が日に10回も20回も確認の電話をしてくるから業務に支障をきたしていると連絡も来るようになりました。母の診断結果を聞きに行ったときのことです。担当は院長でした。院長はざっと母の容態を告げると、「問題はこっちだよ」と父を一瞥しました。「大丈夫なの? 何十回も電話が来て困ってるんだけど。どうにかしたほうがいいんじゃないの?」と、父が目の前にいるのにも関わらず言いました。僕はそのことに驚いたのと、とにかく稽古と父の相手で疲労困憊しており、施設のことも入れたくはないけど仮押さえはしてあるし、と思いながらやっと「そうですね…ただ、父も認知症で……すみません」と言いました。院長は「そうですねじゃないよ、自分の親だろ。どうにかしてくれないと」と言い、そこで父が「申し訳ないんですけど、ちょっと事態が飲み込めてなくて。ええと、このレントゲンは私のですか?」と入ってきます。院長は父の言葉には答えず、僕を見て、「ほら、大丈夫? わかってないじゃん」とまるで鼻で笑うように言いました。僕は、医療現場の方々に父が迷惑をかけていたことは謝りたいと思いましたが、実際に謝りましたが、この人は絶対的に嫌いだ、と思いました。医療現場にいる方でも、認知症の人間に対してこんな言葉を使えること、それからこれは僕の個人的な感情ですが、本人ばかりでなく家族も初めてのことばかりで混乱している状態であるのに、その家族、この場合は僕ですが、を突き放せてしまうという心の在り方に参ってしまいました。父を連れて病院を出て、駅までしばらく歩いていると、父が「ん? お父さんを病院につれてきてくれた?」と言います。僕は「ううん、母さんが入院したのよ」「え、いつ?」「先週」「ええ〜、初めて聞いた」「まあね」「いつ戻るの」「しばらく入院だって」「ええ〜」みたいな会話をしながら電車に乗りました。それまで移動は父の運転する車。じゃなければ姉が運転する車。僕は大学に入ってからずっと東京で活動していたので免許は取らないと決めていました。電車でもなんとかなるじゃん、と、この時も思っていました。院長の言葉もあったし、とても疲れたので、父に「大宮行こう」と言い、2人ではめったに行かない大宮駅に行きました。空気を入れ替えたくて、駅前のDOMというデパートでお茶をしようと、1階にあるシアトル系の喫茶店に入り、向かい合って座りました。「寒いねえ」とか「お昼ごはんどこで食べる?」といった何でもない話をしていると、しばらくして「ちょっと気になってたんだけど、」と父が切り出しました。「お母さんはどうしてるんだっけ?」「うん……、えっと、散歩中に転んで骨折して、入院してる」「えっ、いつ?」「先週」「え〜……」といって、いつもの入院にまつわる質問があったあとに、「ええ〜……」としばらく絶句して、「お母さんがかわいそうだ」と父が声を絞り出しました。「これからいろんなところに旅行しようねえって約束してたのに。海外にも連れてってねえ、なんて言われてたのに」と顔をクシャクシャにして声を上げて泣き始めました。そうだったのか、と思いながら、肩をさすりました。久しぶりに父の肩に触れました。生まれてはじめて父の涙を見ました。母のことをそれだけ思ってるのかあ、と思いました。(若い頃はあんなにたくさん喧嘩してたのにね、とも思いつつ)。

母の退院が3日早まったのは、父が相変わらず何十回も病院に電話を入れるからでした。(それ以外にもいろいろありました。)。2月頭の寒い時期、退院の日、受付で7時間待たされて、後半の3時間は受付の暖房が切られていました。看護師に寒さを訴えたら「院長が切れとのことだったので」と答えました(あの病院はふざけています、冗談抜きでそう思います)。院長に対する怒りもありましたが、感情のエネルギーをそっちに使うくらいだったらその分を親に費やしたい。怒りは流して……。母が出てきました。1週間ぶり、久しぶりの再会、父の喜びようはまるで春の到来、「ああっ、母さん、よかった」と声が弾んでいました。顔半分をガーゼに覆われている母も嬉しそうです。帰り道、すっかり通常モードの父と母。「今日は何があったんだっけ?」という言葉。僕が「お母さん、入院してたんだよ〜」と言うと、2人で「ええ〜」と驚いていました。無事ならその反応もありじゃん、と思ってしまいました。一方で、ある思いが固まっていました。

母の入院中、父が警察に母の捜索願を出そうとして何度か保護されました。警察では認知症の方をそのまま1人で開放できない決まりになっているそうで、親族か保護者が迎えに来なくてはいけません。何度か稽古終わりで埼玉の警察署まで迎えに行きました。近くに住む姉は忙しいということで、対応してもらえなかったのです。23時30分ごろに警察から電話があり、終電で向かったこともありました。迎えに行った時、「事故に合わず、無事で良かったです」と言ってくれる警察の方もいましたが、冷たい態度の方もいて、それがまた刺さりました。「しっかりしなよ、あなた家族でしょ」。そういうことが続き、自分は持たないかもなあと思うようになりました。とにかく父はものすごくしゃべるしものすごく動きます。いっそ事故に遭って動けなくなってくれたら、自分が決断することなく施設一択になるのになあ、ということも考えました。それで、施設に入ってもらおうと決め、2月、仲介さんに連絡しました。

3月に祖母が亡くなりました。15年ほどシルバーホーム生活を続け、103才でした。救急病院から連絡があり、電車とバスを乗り継いで診察室へ行くと、ベッドに祖母の亡骸がありました。手続きに関して両親に聞いても何もわからないので、とにかくググりまくり、看護師さんに質問しまくり、葬儀準備を進めました。が、祖母には「後見人」がいると父から聞いていました。「後見人」が祖母の財務関連を全て管理しているとのこと。え、全てのことは後見人に確認してからじゃないとダメ? 慌てて後見人である司法書士の先生に電話をしました。日曜日で事務所は休みでした。えっ、どうしたらいいの? と思って医師に相談したら一日安置してくれるとのこと。翌日後見人の先生に連絡してみると、祖母の後見人としては財務管理だけを行っているとのことで、それ以外のことにはノータッチと。あ、じゃあ、全部やらないとだ、ということがわかり、葬儀の手配、お寺への連絡、後見人の先生との話、両親への報告、市役所への届け出などをして、シルバーホームにも連絡をして……。この辺りはもう何をどうしたのか、メモは取ってあるのですが、細かくは覚えていません。ひとつ覚えているのが、あらゆることを決めなくてはいけない中で、ほとんど寝てない状態で葬儀社に行き、打ち合わせをした時のことです。打ち合わせの合間に財務のことで後見人の先生に相談したくて電話をすると受付の方が出ました。「先生は今、外しておりまして」。目がギンギンの僕は「相談したくても電話が繋がらないので、先生のメールアドレスを教えて下さい」と苛立ち気味に言いました。受付の方「メールアドレスですね、口頭でよろしいですか?」「はい、お願いします」「H」「A」「N」「A」「C」「O」「L」「O」「L」「I」「N」「で、@(ブラウザ)です。」「はい、……えと、ハ、ナ……コロ、リ、……くくっ、すみません、ハナコロぶっ、リン、の、アットマークの……」。吹き出しました。(メールアドレスは少し置き換えしています)。祖母が亡くなって、慣れないことをやっている中で、急にコロリンが出てくるとは思ってもなくて。司法書士の先生っておカタい感じだと思ってた……。しかも葬儀社内で「笑ってはいけない」状態で、ふつーの顔してすっとオモシロが差し出されるなんて……。メールアドレスを書き留めて電話を切った後、個室だったので、1人で「ズルいじゃん!」と悶えました。久しぶりに笑い、少し心が軽くなりました。その後、何度も面会をしたその司法書士の先生はとてもやさしい方で、ちゃんとそういう狙いでメアドを付けているのかも知れないと思うのでした。

葬儀が終わり、遺品整理のために姉の車を頼ろうとしたのですが、「無理、仕事があるから全く動けない」と言われてしまいました。仕方がないので電車とバスを乗り継いで1時間ほどかけてシルバーホームに行き、挨拶をして、遺品整理をして、100歳を超えた人に贈られるという内閣総理大臣からの賞状とテレビを持って帰り、父に「テレビ、持っていくよ」と電話をすると、「いらないよ、捨てて」と言われました。前日には父が「テレビはあってもいいな」と言っていたのですが……。回収業者に連絡すると費用は15,000円から。高い! リサイクル場へ持っていけば3000円あまりで済むらしい、ということで、テレビを抱えてバスに乗り1時間、徒歩で10分歩いてリサイクル場へ。別日にまた契約終了の手続きのためにホームへバスで行き……。

相続のことや市役所とのやりとりや何もかも。手を付ければつけるほど、自分は父や母に関して何も知らないという事実だけが巨大なばかうけみたいに(映画『メッセージ』より)いくつも出現し、それを「理解」「咀嚼」「活用」できるようになるまで、あの手この手で聞き出したり家の中を調べたり、普段の雑談からふと関連する話題を引き出したりして、2人に関するさまざまなことを知っていきました。

2人を施設に入居させようと決めて、祖母の葬儀で中断していた入居のことを3月下旬から再開させました。それから2ヶ月何度も話して説得を試みて、いろいろな話をして、日取りを決めて、信頼する友人に車を運転してもらい、荷物も積んで連れてって……そして断念し、連れ帰ってきました。
この2ヶ月は、父と母と何を話しても、何が正解かわからず、ただ引き裂かれ続けた日々でした。

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すみません、ものすごく長くなってしまったので、一旦この辺りで終わります。

施設入居にあたって、送迎は姉の車で、姉の休日に合わせて計画を立てていたのですが、僕の予定に合わないことがあり、何度か日程を延期しました。自分が動きたい、動けると思ったタイミングで動けないこともストレスでした。ある種最後の家族旅行と考えて、家族で送るのがいいだろうと思っていたのですが、こちらには稽古インというリミットもあり、姉と予定を合わせるのをやめ、信頼する友人にプライベートな事情を伝えて車の運転を頼みました。両親を施設へ送る行為に後ろめたさもあり、そもそも親族以外の誰かを巻き込むべきではないと思っていたので、自分の無力が辛くもありました。それまでも、自分が運転できないために「ここまで他力本願だとは……無力感ハンパない……」という思いが山積していました。そういうことがあり、立て続いた予定が一区切りを迎えていた時にそうだ、と思いついたのが免許のことでした。そして一昨日、無事に運転免許取得となりました(とてもこぢんまりとした理由だ……)。よかった……。(合宿での日々はおもしろかったので、また改めて少しずつ書いていこうと思います)。とはいえ所持する車はないし、どうしていくかわからないですが、まずは親を車に乗せてどこかに連れて行ってあげたい。と思っています。ゆくゆくはもっと別のことでもまた必要になるだろう、ということも考えて。

それで。何が言いたいかというと。僕は演劇カンパニーをやっています。そのクリエイションの最中に上記のことがありました。稽古と親を天秤にかけて随分苦しみました。誰にも頼ることができない状態ができあがってしまって、演劇をすることが親を見捨てることにつながってしまって、でも動き始めたカンパニーに対して、その動きを止める決心が付かずに両方を進めて行ってしまいました。

特に今年の2作はキャスト、スタッフのみなさんに多大な迷惑をかけながら、寛大な心と行動で支えてもらいました。『苗をうえる』『心白』が上演できたのはみなさんのおかげです。また、自分の状態を伝えることは、お客さんが作品に触れる際のフィルターとなってしまうのではないかという危惧や、純粋な発表作として受け取ってもらえなくなるかもしれないという恐れがありました。同時に、創作の立ち上がりは自分の生活や苦しみから生まれたものでもあり、容易に切り離せないということを自覚しているがゆえに、「どうしたらいいんだろう…」という果てしなさを感じていました。作品に触れてくださった方がその瞬間に受け止めたものが歪んでしまうのではないかとか、失望させてしまうのではないかみたいな、言ったらいじらしいというか、助平心というか、何というのでしょうか。僕の事情、というよりもこの一件に集約させられてしまうのがとても嫌だったのです。だから何をどこまで伝えるべきか、伝えないべきかずっと考えていました。だけど、先月の『テアトロ』に書かせていただいたエッセイ(ぜひ読んでください)のように、自分が作る演劇は、自分の日常や日々と同じ地平にあり、そこから生まれるものであり続けたいという思いもあり、随分矛盾した感情を抱くものだと思いながらも、結局こうして書いています。

書いたのは、同じような方がーー誰にも相談できずに苦しんだり例えば演劇をやめたりする前に、ここにもこんなにテンパった人間がいるんだよ、ということを知らせるためであり、祖母の葬儀を、両親が存命の状態で孫が代理でやることの厄介さや(本当に!)、認知症の家族を持つことの不安や寂しさ、徐々に遠ざかっていく家族と向き合い続けることの思いをどうやって共有したらいいか、迷ったり苦しんでいる人がいるかもしれない、ということを自分が想像したからです。自分がそうだったので。(同じことを繰り返してしまう認知症と、同じシーン稽古を繰り返す演劇は相性がいい、素直に、毎回生まれる新鮮な感情を受けて返すことができる、ということもわかったりしました。もちろんそれだけではないですが)。今は、いろいろなことを受け容れることができ、これから起こるであろうことへの心の準備も始めています。だけど予想以上の出来事が、稽古中や本番中に起きたらどうしよう、ということも考えています。

そういう人がここにいます。この文章を読んでいる方のどなたかが、それに近いような状況にあるなら、全てを受け止めたりは難しいかも知れないけど、1ミリでも何かを共有できるかも知れません。ゆるく、繋がりませんか、という思いを込めて。

僕は自分が渦中だった時に、同じ境遇の話をされても聞き入れられませんでした。心が閉ざしてしまうというか、誰かの事情を受け容れるスペースがちっとも余っていなかったのです。そういうことがあるんだなあと思うと、誰かにとって、状況を整理したりするために、吐き出したりすることが可能になれば。それに耳を傾けることくらいは、今の自分にはできるかもしれないと思います。専門家ではないので、聞くことぐらいだと思いますが。

そして、何よりソロ・カンパニーが、ソロ・カンパニーだったり、これから演劇活動をしっかり始めようと思っても何を頼りにしたらいいかわからないといったりで、孤立しがちな状況に対して、(笑ってしまうほど無意味かもしれませんが、)多少でも話を聞いたり、かる~く方向を示すようなことができればなと思ったり(動き出すのは自力で行かなくてはなりませんので、あくまでもふわっとした情報になるかもですが)、情報を交換し合ったりできたらいいなということを実現するために、ちょっとした、立ち止まるための場所を作りたい、ということで……。

『いきつく/ikituk』
というプロジェクトをはじめます。
中間支援的な、それよりもう少し手前の。どこかへ向かう途中にあって、息をつける場所だったり、行き着ける場所になれたらいいなと思い、この名前を付けました。ほろびてと並行して、そんな活動を始めます。手弁当なのでとてもささやかですし、地域限定活動ですが。Webでも始める予定ではありつつも、僕があまりにもWeb構築の知識を持っていないために今、難航しています……無念。

僕は、自分がとても回り道をして生きているので、この要領の悪さの中で得てきたものを少しでも共有したりして、ちょっとでも気楽に生きてもらえたら、何よりゆるいつながりがここにあるかも、と感じてもらえたらいいなと思っています。(要領の悪さは合宿免許でもすごく実感しました。でもきっと、間違える数だけ気づきがあるはずです。)

近日、ほんとうに近日中に、手探りではありますが、ロンチのための会を行えたらいいなと思っています。改めて告知します。

何ができるのかは進みながら考えていきます。セーフティの、いろんな選択肢の中のひとつ、こういうものもあると頭の片隅に置いていただけたらうれしいです。今は興味がなかったり接点を持ちたくなくても構いません。僕が続けていけば、やがて交わることもあるでしょう。興味がある方など、近いうちにメアドも公開しますので、ぜひお気軽にお問い合わせください。

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今も両親は変わらずマンションで暮らしています。僕は週一回、会いに行って話をしたり状況を観察したりしています。2人でいるからある程度症状はうまく噛み合って進行が緩やかなのだと思います。でも、僕が顔を出して、何かを聞いたりすると記憶を掘り起こすのを苦しそうにしたり、何か提案をすると、そういう変化に対応するために苦しそうになっています。今は、可能な限り変化が少なく、変化するとしても地続きにそれとなく訪れている、という状況を作ろうと努力しているところです。

僕が気配を消して耳をすましてみると、2人の会話は噛み合ったりしています。だから時々、僕が2人の世界を邪魔しているんじゃないかと思います。2人のルールはこの世界にはなくて、外の世界にあるのかもしれないと考えます。もしくはこの世界のルールを脱構築していたり。壊れていくのではなくて、2人のルールはあって、それが僕とは違っていくだけ。この先はわからないけど、今はそういう状態です。


いきつく/ikituk ロゴ
[デザイン:酒井博子(coton design)]

いただいたサポートは、活動のために反映させていただきます。 どうぞよろしくお願いいたします。 ほそかわようへい/演劇カンパニー ほろびて 主宰/劇作、演出/俳優/アニメライター