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キリル文字の駅案内の件で

ところで皆さんこいつをどう思う?

これは本日報道された恵比寿駅から「ロシア語」の案内が撤去されたことを受けて投稿した私のツイートだ。

まず真剣に考えてくれたフォロワーの皆さんにはこの場で感謝を申し上げたい。次に謝りたい。なぜならこの回答にはロシア語は一つもない。上からブルガリア語、ウクライナ語、ウズベク語、セルビア語、ベラルーシ語のつもりで書いた。ちなみにロシア語で書くと"Токийское метро"。真剣に考えてくれた方、すいません。

このツイートで気づいて欲しかったことは何か。

・キリル文字=ロシア語ではない
・キリル文字で書かれる言語の多様さ

・・・である。

キリル文字は伝統的にロシアだけのものであったわけでもない。キリル文字の普及に関してソビエト連邦の言語政策が大きな影響を与えたことは間違いないが、少なくともソビエトはロシア民族だけの特権としてキリル文字の独占をしなかった。むしろキリル文字による諸民族言語の表記法を考案し、いい意味でも悪い意味でもソビエト中の民族言語に書き言葉を与えた。

またブルガリアやセルビアなど、現代のロシアの外にもキリル文字を使う言語は存在する。従って、繰り返すことになるが、現代社会でキリル文字をすぐにロシアと結びつけることはいささか気の早いことなのである。

キリル文字を知ろうとすると振り返らないとならないのがスラヴ語の歴史だ。というのも、そもそもキリル文字は古代のスラヴ語を書くために開発された文字だからである。開発された場所もロシアではなく、南欧のブルガリアとされる。

それ以前はグラゴール文字という、独創的な文字を使っていた。しかしながら、十世紀のブルガリアのキリスト教徒たちはグラゴール文字の考え方を参考にしつつ、ギリシア文字も採用し、新しい文字を開発したのである。それがキリル文字である。名前はキュリロス(キリル)という修道士に因んだものとされる。文字の開発者がキュリロスというわけではないらしい。

服部によればキリル文字が使われた最も早い例はクレプチャで発見された刻文で九二一年のものとなる。また、ブレスラフの円形教会跡からは十世紀のものと考えらえるグラゴール文字とキリル文字の両方で描かれた碑文が見つかっている。このようにキリル文字は伝統的にスラヴであり、正教会の伝搬と関係した文字であったのだ。

現在のヨーロッパのロシア語、ベラルーシ語、ウクライナ語、セルビア語、ブルガリア語、マケドニア語などは伝統的にキリル文字で書かれている。また、スラヴ人に囲まれたルーマニア語も昔はキリル文字で書かれていた。ルーマニア語は今ではラテン文字での書き言語があるが、その一方で沿ドニエストル共和国のルーマニア語(モルドバ語)は今もなおソビエト譲りのキリル文字表記が存続されており、ロマンス系言語において唯一キリル文字を使用する言語として一部の言語マニアを惹きつける魅力になっている。

一方で、スラヴ系言語ではない言葉はどうか。現代世界のキリル文字はスラヴ民族の独占的なツール、というわけでもないのである。一九四〇年頃にソビエト各地で行われた文字改革は現在の世界にも影響を残している。ユーラシアで広く話されてるタタール語やサハ語のようなテュルク諸語、北アジアで話されるモンゴル語やブリヤート語のようなモンゴル諸語などもキリル文字を使う。コーカサスの民族もアディゲ語のようにキリル文字をベースとした文字を使っている。極東でも例えばイテリメン語にもキリル文字が使われている。

このような多民族・多言語の点に立って、日本の恵比寿駅で日本の固有名詞を案内するためとはいえ、日本でキリル文字で書いた案内を準備した、というのは正直興味深いところではある。

だがしかし、日本では「キリル文字」という名前に加え「ロシア文字」という別名があることから「ロシアのもの」と誤解する人も多いのかもしれない。それゆえにこのようなヘイト騒動とも解釈できるニュースに繋がったのは残念だ。

また、ロシア語やキリル文字に罪はないことは特記しておく。いかにロシアが戦争しているからといって、ロシアに関係するものには何をしてもいいという風潮やロシアの文化に関わるものは抹殺・隠すべきという考えが広がることにも反対だ。

JRでは一五日から表示を再開するようで、クレームに負けず再開してくれるのはキリル文字に触れている人間から見て嬉しい。ありがとうございます。これに加え、アラビア文字とかヘブライ文字とか、モンゴル文字とかベルベル文字とかカナダ先住民族文字とか、どんどん多彩な駅看板を作っていって欲しいと思います。

でも今度は「たくさんありすぎて見づらい」ってクレームがついてしまうか?

顧客対応は難しいものである。

参考文献:


1.『古代スラヴ語の世界史』 服部文昭、2020/1/21、白水社
2.『ニューエクスプレス・スペシャル 日本語の隣人たち I+II[合本]』、小野智香子「Ⅳ イテリメン語の世界」、2021/11/16、白水社
3.『ソ連言語政策史再考』 塩川伸明 https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/slavic-studies/46/pdf/shiokawa.pdf

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