見出し画像

食べ物は栄養学/言語学という観点と料理のタクソノミー/構造主義という観点で、類似した発想の元で捉えられると考えます。

料理にはそれぞれ、レシピというか構成材料があって、その原料にはその原料を構成する成分や栄養素があるわけですよね。この考えは形態言語学と構造言語学の考え方と類似していると思っています。

形態学の思考ではこれ以上切り分けられない「形態素」と呼ばれる最小単位、それから「語」、そして「文」と言語も細かく切り分けます。そして、それで書く構成要素がどのような働きをしているのか分析します。これはたべものの分野でいうと食品機能学や栄養学に相当すると思います。「文」が料理、「語」が材料、「形態素」が栄養素なのではないでしょうか。

上位まで概念が上り詰めると、「食べ物のジャンル」や「料理の名前」という考えが出てきます。ここで初めて食べ物は「料理」になります。「何かの過程を経て、生き物が口径摂取可能な状態にする」ことですね。

この分野については様々な理論や哲学があります。ここでソシュールの構造主義の話を出します。これはソシューリアンの考え方ですと、ある社会で共有されている語の認識方法の「ラング」、個人の発話と発想に基づく「パロール」、それから言語そのものの文節能力である「ランガージュ」に言語の認知・活動領域が別れることになります。

例えば上記の切り分けだと、ブホリ語は個人が使用する言い回し、それから「ブホリ語」と扱われるユダヤ社会、単なるタジク語(のせいぜい一方言)と扱うユダヤ人の外の社会、それから「ブホリ語」そのものに分かれます。

例えば私がチキンが入っていないほうれん草のピュレから作ったカレーを「サグチキン」と呼びます。チキン関係ないけれど、「サグチキン」。これは個人の恣意の命名なので「パロール」です。

そして、私が帰属する社会上の組織や共同体では、もしかしたらこれを「サグチキン」とするか、あるいは単なる「カレー」と認識してくれるかもしれません。「サグチキン」という名前が広く流通しているとは思えないので、カレーと説明すれば単なる「カレー」に還元される気もします。社会によって規定されているので、これは「ラング」の分野だと考えます。

ただ、文化が違えば「ラング」も変わるはずです。なので、もしインドに行って私がインド人の友達に「『サグチキン』作った」と言ったら、そのインド人に「いいや、これを『サグチキン』と私たちは呼ばないよ』と言われるかもしれません。

最後にランガージュ。これは言語そのものです。なので、ここでいうと「サグチキン」の話になります。レシピやそれを構成する原材料の栄養など。このサグチキンは例えば材料でいうと「ほうれん草が何割で、乳脂肪ゼロのヨールグルトが大さじ5杯、ココナッツミルクが200ccなど、そういう話になります。

ここで「たべもののラング」と「たべもののランガージュ」としてソシュールの構造主義がことばとつながると思います。この二つの概念は鏡面のような存在です。「食べるヒト」と「食べられるもの」の関係です。現象学の「ノエシス」と「ノエーマ」的な感覚に近いかもしれません。

「『食べるヒト』が『食べられるもの』をどのように認識、定義するのか」がこのプロセスで達成されるわけです。上記の例を振り返ります:

なので、もしインドに行って私がインド人の友達に「『サグチキン』作った」と言ったら、そのインド人に「いいや、これを『サグチキン』と私たちは呼ばないよ』と言われるかもしれません。

この点、「ラング」と「ランガージュ」の不一致も出るでしょう。「ラング」は『「ランガージュ」とはこういうものだ』という構造ですし、「ランガージュ」は『「ラング」でこの語はこのように認識されるべき』という無意識の対立構造になっています。この材料からいえば『サグチキン』という概念や食物定義がここで成立しない可能性もあります。

例えば、この『サグチキン』の材料にはチキンがありません。ソイミートが使われています。また、インド人には馴染みのないバーモンドカレーの塊を粉にして味を調節しています。クミンで炒めているものの、ターメリックなど、インドの煮込み料理で使われている典型的なスパイスは欠けています。

しかしながら、「パロール」も含め、料理はこのずれの中において挑戦する価値がありますし、言語も三つの要素の中において進化するものだとしたら、このような不均衡さは歓迎されるべきものでしょう。

では人間の日々の営みにおいて言葉は何をしているかというと、ソシュールでいうと音と思考の媒介としての役割があります。次に井筒俊彦でいう人間の思考の形を「分節」化する、思考の雛形の役割があるわけです。

でこれを食べ物に置き換えるとどうなるか。私はまず音は「栄養」です。食べ物が外界の栄養と人間の体の媒介となっています。次に体は摂取された栄養で自分の体を構成しなおします。

このように「たべもの」と「言語」は似た思想のレールの上で日々の人間の活動を支えている点で類似したプロセスを経る概念だと考えます。

資料や書籍の購入費に使います。海外から取り寄せたりします。そしてそこから読者の皆さんが活用できる情報をアウトプットします!