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4、近代からの日本の人口動態

ここで日本の歴史人口のデータに戻り日本の明治維新からの爆発的な人口増加を考察していきたい。

明治維新の1868年で人口は3330万人、終戦の1945年で7199万人、77年で2倍以上に増加している。享保の改革から明治維新までの約150年間で280万人ほどしか増えていないことを鑑みると驚嘆すべき数字だろう。この増加要因を考えるうえで産業革命期のイギリスと重ねることができる。なぜなら明治維新は言い換えれば欧化政策といえるからである。

列強諸国と締結させられた不平等条約の解消を目指し、伊藤博文をはじめとする維新の志士たちは列強がその地位を築いた所以たる政治、経済のシステムに関する知識を蓄え積極的に日本に取り入れた。版籍奉還(大名の直轄する土地と人民を明治政府に返還)、廃藩置県を行い明治政府が主軸となる中央集権的な国家を形成した。そして大名、公家は特権階級である華族に、ほかの士農工商は平等となることで身分制度から脱却、税制改革である地租改正も行った。

この地租改正は明治政府の政策の中でも重要といえる。地租改正が改めたのはまず金銭で税金を納めさせること、土地の収穫量を課税基準としていた明治以前の貢租から、土地の収穫力に応じた地価を課税基準としたことだ。これにより政府は豊作、凶作に関わらず一定の収入が見込めるようになった。そして税率を一律にしたことで収穫量を上げれば上げるほど儲けが大きくなり小作人たちの労働意欲向上を促した。この地租の改革が最も将来に貢献したといえるのは地券を発行することで個人の土地の所有が保障されたことだ。これは個人の所有権の保全ともいえる。江戸時代でも所有権ないし私有財産制はある程度保障されていたがこれが何を意味するかというと、所有権の保全は経済成長の苗床となるのだ。

例えばAさんが一年暮らしていけるほどの穀物を一か月で作ったとする。しかし、この穀物を1か月暮らしていけるほどの量だけ残して地主に没収されたとする。さてAさんはまた一か月で一年またはそれ以上の生産活動をしようとするだろうか。仮に余剰の利益を出しても自らの懐に入らないのであれば無意味であり、人は勤勉であることを放棄し最低限の労働しか勤しまないだろう。実際中世ヨーロッパの封建制度はこのような状態であった。封建制は領主が農民をその土地に縛り付け財産を吸収するシステムであり、所有権はもとより政治的、経済的自由は全くなかった。このような固定化された流動性のない社会では経済が成長するはずがなく、長らく経済学という学問は興らなかった。

しかし、イギリスという国家は1689年の名誉革命の時に信教の自由や所有権などのジョン・ロックの著した統治二論の内容が盛り込まれた権利章典が起草された。国王がこれを遵守することを約束、君臨せずとも統治せずの本格的な立憲君主制が始まった。イギリスで産業革命が起こった原因として頻繁に挙げられるのは農業革命による人口増加や資本の蓄積などだが、この資本の蓄積は個人の政治的、経済的自由があったからこそなせる業であろう。つまり財産が対外的に保障されることや侵害された場合、不法であると訴え補償できるということから初めて個人の財産をより増やし富める人間になろうという精神が生まれる。この精神が生まれることこそ、封建制がしみ込んだ中世、近世からの離脱を意味する近代化の前提条件なのだ。

また明治から終戦にかけての人口を考えるうえで最も重要な制度といえる家父長制が明治民法によって保障された。この制度の重要性は後に記したい。明治政府は富国強兵のため殖産興業というスローガンを掲げ国家主導で工業化を促進、先ほども述べたように土地の売買などの自由な経済活動が保障されたことで多くの事業が興り雇用が創出。多方面で雇用が拡大し労働者の需要が高まったことで賃金の高騰が起き、都市部の人口は爆発した。これはまさに日本の産業革命といえるだろう。のちの日清、日露戦争を経てますます工業化は進んでいった

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今年の3月、4月にコロナ禍真っ只中で暇なテルが書いた人口問題に関する論文じみた文章です。人口や少子化という概念を歴史的に分析し、主に人口と…

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