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『エキソニモ UN-DEAD-LINK アン・デッド・リンク』@東京都写真美術館 鑑賞メモ

エキソニモの回顧展が開催されることを知った。WAITINGROOMの展示でも、あいちトリエンナーレの展示でも、ちょこちょこ出会うアーティストなので、記憶に残っていた。最近ではCADANの新しいギャラリーで見かけた。

あいトリに展示されていたキスが、2階の売店前に設置されていた。今見ると、ロックダウンの中でのコミュニケーションを暗喩しているようにも見える。

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過去の作品を含め、多くの作品が展示されている。写真の他に、動画も撮影可能という。


情報技術に深いかかわりがあるが、その観点から見ると見誤ると思った。恐らく、今年の年初までに見ていたら、作品の実現方法のみに気が行ってしまい、エンタメかなと解釈していたように思う。

入り口にあるテーマによって色分けされたケーブルが巻かれている。

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会場に施設されたケーブル、カテゴリー5のケーブルだと思うけど、昨今、インターネットに接続するのにケーブルなんて見ないよね、なんて思った。ただ、解る人には分かる。そして、分からなかったとしてもインターネットは使える。

そうしたケーブルは、展示領域の緩やかな仕切りと、足元に広がる様子が、見えないモノだけど、インターネットを支えている。そうしたことを暗喩しているようにも思った。鑑賞者の知識によって多層に輻輳する解釈というものがあるな。


暖炉でキーボードとマウスを燃やす映像作品。

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太古の昔から、人々は火の回りに集まり、コミュニケーションがとられてきた。焚火から暖炉に変わっても、団らんだったり、その日にあったことを話したり、そうしたコミュニケーションは長い歴史があった。もちろん、ここ最近は個人のためのデバイスがあり、そうしたコミュニケーションは無くなってきた。バルデッサリの火葬展をも連想する。

コミュニケーションが個のループになる中で、デスクトップパソコンの象徴とも言えるキーボードや、マウスもその役目を終えたという。

これは誰でも作れる作品だと思う。

ただ、エキソニモが、これを提示する意味を考えさせられる。

現代人のほとんどがスマホを持ち、自分自身の分身として肌身離さず持ち歩いている。メガネをかけている人が、メガネが体の一部であるように、現代人にとって、スマホは体の一部になっている。ステートメントにもあるように、家族団らんとしての火、暖炉の火だけの映像が、YouTubeで再生時間を上げている。この動画もリアルなのである。太古は夜の闇から身を守るために焚火を囲んでいたであろう、そうした社会性は既に個別のタイミングで非同期になった。現在は主客が融合していくように見えて、実は個化が進んでいるのかもしれない。


足元のケーブルに象徴されるように、自分のコンテキストによって、何層にも解釈を膨らますことのできる展示だった。こうした見る人への接続と、ネット社会とを技術的な、それこそオタク的な視点で集めている。そこが、鏡像のような印象を残した。



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