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「ゲーテからベンヤミンへ ドイツ文学における主題と変奏」 読書メモ

平野篤司 『ゲーテからベンヤミンへ ドイツ文学における主題と変奏』 四月社、2014。

なぜ、この本を手に取ったのか覚えていない。ただ、ベンヤミンは押さえておかないといけないと考えていた。著者は成城大学の教授、この本の他にもドイツ文学の本がある。成城大学のホームページからは、論文にアクセスすることもできる。

批評というキーワードでベンヤミンが出てくる。批評とは何かを勉強していたときに、行き当たったものと思う。

造形

美しさ

文学を語る上で、出現するトピック。僕は二十歳前後の頃、ゲーテ、カミュ、カフカ、ジッド、森鴎外などを読みふけっていた。思索の面白さこそ感じたものの、そこに美があるということに気が付いていなかった。ゲーテの詩集は意味も分からず、何度も読み返していたように思う。

大学院に入って現代アートの研究を始めるまで、そうしたことを忘れていた。企業人として凝り固まっていたように思う。こうゆう事が怖い。自分の人格は、一貫した、ゆるぎないものとして存在すると認識しがちだが、年齢とともに変化していく、確固たる自分というものがあるのか…。

ゲーテが、民謡、あるいは詩『少年の不思議な角笛』を称賛した。それらの中にある美しさに共鳴したため。

明確な近代的自我を備えた詩人が作る叙情の世界ではなく、自己とも、また他者とも言い難い、最早主体とも客体ともいえそうもない世界そのものが共鳴するような歌の世界こそ彼をひきつけたのではないか。(P.20)

美とはそれぞれの中にある。ある作品と対峙したときに、それを美しいと感じるのは、自分の中の美と共鳴したときだと思う。そのことを、本書で裏打ちされたように思った。

ちょうどこの本を読んでいるときに奈良原一高の写真展に出かけた。カミュの詩とそれに応答した作品を美しいと感じた。それは何故だろうか。ロバート・フランクの写真集、星の王子様の引用、それをオマージュしたかのような詩と写真の共鳴。写真は雄弁であり、詩の寡黙さを補完するのだろうか。

ゲーテは、実に様々なものを吸収する受容の巨匠であり、受け容れたものを組換えて再創造する変容の巨匠であった。(P.23)

こうした再創造のアウトプットは思索ではなくて、生活あるいは生きること、これは芸術のための芸術ではなくて生活とひとつに収斂する。ゲーテの時代、19世紀末に芸術が生活から乖離していく。芸術のための芸術。ここから芸術至上主義が唱えられた。この芸術至上主義を精神論とし、肉体を失ってしまい、生命の枯渇を招いてしまったという。精神だけでは乾いてしまう

ゲーテは、自分自身をも現象として、また対象としてみることのできた類まれなる目を持っていたのである。(P.23)

自身を通じて、世界を、宇宙を認識する。これがゲーテの象徴表現だという。それは体系だったものではなく、雑然、漠然としたもの。世界は広くゆたかなもの。詩人の人格がそれを表現する。僕がゲーテに感じた美しさは、こうした美によるものかもしれない。

ドイツ古典主義はゲーテの存在に尽きるのである。(P.31)

本業の外資企業ではドイツ人と仕事をすることがある。彼らの合理的、論理的な考え方、なんでそんな風に考えるのだろうと疑問に思ったこともあるけれど、そういうものだと思っていた。ところが、ヘルダーリンの詩を読んで、妙に腹落ちした。

厳しい言葉かもしれぬ。だが、本当のことだから言っておく。私は、ドイツ人たちほど引き裂かれた民族を知らない。職人はいるが、人間は見えない。思想家はいても、人間は見えない。司祭はいても、人間は見えない。主人と下僕、若者と分別ざかりの人々はいても、人間は見えない。それは、流された血が砂の中にしみいる傍らで、手と腕、そして体のあらゆる部分がずたずたにされ散らばっている戦場のようなものではないのか。(P.46)

この詩から、どこまでのことを受け取れたかは分からない。けれども、ヘルダーリンが持っていた憤りというか、怒りの深さ、大きさは十分に感じられた。

デュオニソスとイエス・キリストの融合、パンとぶどう酒。人と神の関係。

アドルノのヘルダーリン解釈によってドイツ人のヘルダーリン評価を見直そうとしている。このあたりの流れについては前提知識が足りなすぎると思った。

それでも、芸術に対する解釈の大きな助けになる。

主観的意図は、客観化されない限り、ほとんど再構成できない(P.84)
芸術の過程において意図は、ひとつの動機であって、それは形象の内在的事象内容である他の諸動機との切磋琢磨を経ることによってのみ、形象となる。(P.84)
跡形なく意図が造形されたものへと解消されればされるほど、うまくいくのだろう。(P.84)

作者の意図とは別に作品が育っていく。解釈者は意図は作品の一部として、その形から形而上学的な解釈に至る。つまり、この作品は何か、この作品を通じて、世界とどうつながっていくのか。

アドルノのヘルダーリン解釈が続く。思索の螺旋階段のような文章に、目眩が起こるものの、端々に光が見える。そして、アドルノからベンヤミンに接続していく。

ベートーヴェンの節に、芸術家の人生と作品とに関する記載がある。両者を全く切り離して考えるわけにはいかないが、深く結びつけるものでもない。芸術家自身の人間性と作品との形象。

僕は、ここにフォーマリズム批判との共通性があるものと解釈してしまった。そのことを大学院のレポートに記述したのだけど、説明不足であるという添削を受けた。せっかちに過ぎた。他のレポートでも、展開を急ぐあまり、省略してしまった事項があったのだけど、そこを指摘された。前提、出発点の合わせ、そうしたものがとてつもなく大事。ボタンの掛け違えを指摘してくれる。これこそリカレント教育で得られるとても大きな成果。これから修士論文に取り組むにあたり、肝に命じておこうと思った。

作者と作品はどこかで決定的に切れているということを見逃してはならない。現実に生きる作者は作品が生まれるためのひとつの重要な契機であるが、ひとつの契機でしか過ぎない。芸術家は、その主観を原動力として素材に働きかけ造形するが、造形されたものは、その時点で作者とは別の物に転化してしまっている。(中略)死物あるいは無機物の世界、これが整然としたものであれ、雑然としたものであれ、本質的には廃墟に他ならない。それが生きた表情を見せるのは、人がそれに接することによって、作品が生気を帯びるということがあるからだ。(P.138)

思想、意図、問いかけ。そうしたものが作品として受肉する。鑑賞者によって、息吹を与えられ、活き活きとしてくる作品。そしてアーティストは存命で、会って話をすることもできる。これこそ現代アートの醍醐味のように思う。

ベンヤミンの「文字は思考を支配する」という言葉、文字通りの受け止め方。文字、それを書くという行為、それが脳髄の暴走を阻止するという。体の動きが伴うために時間の制約も生まれるし、運動による物理法則に支配される。

空を飛行するものは、風景の中で街道が開けていくのをただ眺めるだけであり、歩行する者のみが、道の持つ支配力を知るのである。(P.162)
芸術作品ははじめから完成品として自らの姿を見せていると捉えてはならない。(P.280)

反省と批評、作品を通じてリフレクションをしていく。そうした考え方があるのだろうと推測した。このあたりは、何度も読み返さないといけないだろうと思う。批評とは何か、そうしたことのひとつの助けになる。ただ、長い道があったということが分かっただけとも取れるかもしれない。



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