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多様性とアイデンティティと対話(ダイアローグ)

僕はヨーロッパ資本の会社に勤務している。日本で論じられる、感じるよりも早くダイバーシティ&インクルージョン(D&I)のトレーニングが始まったと思う。確か2000年代半ばあたりに年に一回くらいの必須のトレーニングがあった。一番印象に残っているのは、インド系の留学生から就職も留学先の国で採用された従業員が、英語の発音によって教育を受けていないというレッテル貼りをされてしまった。そのために孤立してしまったという。実際として彼女は博士号を持っており、教育もヨーロッパで受けていた。あいまいな記憶だけど、教材は上司が英語発音のトレーニングを彼女にアサインするとともに、そうした誤解を解く手助けをするべきというものだった。2000年半ばなら、こうした内容でしょう。D&Iの観点というよりも会社が訴訟を回避するような動きが強かったと思う。

2020年代の今は、もう少し変わった見方をする。


週刊東洋経済の8/6号

「ほんとうの多様性についての話をしよう」の著者、サンドラ・ヘフェリンのインタビュー記事があった。

このインタビューの冒頭に、”アイデンティティは1つという思い込みが日本では強く”という記載があった。前後の背景を補足すると、著者はドイツと日本のハーフであり、ナショナル・アイデンティティのことを指しているのではないかと推測する。

この記述を見て、僕はアイデンティティをもっとストイックに受け止めていたような気がした。移ろい変わっていく自分だけど、そこには一貫した自分があると考えていたが、アイデンティティは他者から見たものなおかもしれない。彼女に対してドイツ人なのか、日本人なのか、踏み絵のように迫る周囲に対するコメントが印象深かった。

なぜ、アイデンティティを自己の内のものとしてみたのか。身近に精神分裂病と診断された者があって、それまでの性格ががらりと変わってしまった。この体験が強烈であり、アイデンティティとは何かということをテーマに、思索を重ねていた。精神分裂病は今では統合失調症と呼称されている。病ではなく症候群として扱われている。




インタビューにある踏み絵の記載、ライトな感じだけど、とても重要なことを話している。行動によってアイデンティティを示さなくてはならない。

「あの人はこういう行為をしたから日本人ではない」「あの人はこれをしたからやっぱり日本人だ」という判断基準のことです。

さまざまなルーツを持った子供が増えている中で、こうした認識は根強くあると思う。

本人の話を聞かず、見かけだけで想像・判断しがちなのではないでしょうか。

ドイツの事例に続く。ドイツは1950から70年代にトルコを中心に多くの移民を受け入れた。今ではその子孫もあって、ドイツ人といっても様々なルーツがあるという。包摂が進んできたとするが、問題もあるという。シリア難民の受け入れがウクライナ難民ほどではなかったことを引き合いに出し、ルーツが遠く、宗教も違う人たちに戸惑ったという。

現代アートの研究のうちのひとつ、作品を見ること。映像作品をすべて見ないのに批評することはやってはいけないこと。時には忍耐強く作品を鑑賞することになるが、そうした経験が、初期の段階でラベリングをすることの怖さを教えてくれたと思う。これもアート思考のひとつと考える。

ひとつの個体をとって全体とみなすことは危険だし、全体に個体を適合させるようにするのは、もっと危険だと思う。

この人はこうだ、と決めつけることなく対話を続けていくのがとても重要です。多様性社会を構築するには、その国で受け入れられることと受け入れられないことのコンセンサスを、時間をかけてつくっていくことです。その過程では多くの議論があり、衝突もあるでしょう。いつもみんな仲良くとはいかないこともあります。

おもてなしだけでは、息切れしてしまうでしょう。




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