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雲のように考える:コンテンポラリー・アートはどこへいくのか 聴講メモ

年明け早々に、東京藝大でハンス・ウルリッヒ・オブリストの公開講義があった。チケットは相当人気で、あっという間に満席になっていたように思う。

ゼミ生も多く参加した公開講座、日本のアート関係者も多く出席していた。結構、名の知られた人も一般席で聴講していた。招待席を埋めていた人達は、ベテランというか、そうした人たちと若い人たち。若い人は学生なのでしょうね。20代から60代が入り混じって、講堂は満席になっていた。

5時間くらい話したいと言ったハンス・ウルリッヒ・オブリストに対して、2時間にしてくれと調整したらしい。そんな講義は1991年のキッチンショーから始まる。たまたま自宅のキッチンを使っておらず、友人のアーティスト(有名人ばっかり!)から勧められたこともあって展覧会を開催した。

アートが存在しえないところに、アートが生まれることの面白さ。キュレーターとして、アーティストと話をしているうちに、いろいろなものが生まれてくる。インタビューでしか出てこない情報、そうした情報を共有知とする。アート、鑑賞者、世界をつなげていく。

建築家は実現できなかった建築を出版という形で発表している。アートでも、そうしたことをやってみたい。つまり、アイデアはあるものの制作に至らなかったものを本という形でまとめるということなのでしょう。

実験室とスタジオを繋げるラボラトリウムという試み。自分が住んでいる地域に、様々な研究所がある。アーティストのスタジオもしかり。そうしたものを重ね合わせ、アートとして可視化させるということ。

この話を聞いて、昔駒沢に住んでいた頃、東京都立のアイソトープ研究所があったな、なんて思い出していた。身近に原子力研究所があるということを認識していた人って、どれくらい居ただろうか。なんて思ってみたり。

さておき、写真館を本社として町にある研究所、スタジオへ出かけていく。社会との接続、人々が触れるという点が印象的だった。

アートと出会い。

社会の中でアートを出現させること、出会いを設けること。アートは先行指標として社会の早期警報装置として機能する。だからこそ、社会とも人々とも繋がっている必要がある。

パウル・クレーは見えないものの可視化を行なった。

認知のトレーニング。岡山芸術交流でも見たピエール・ユイグの脳波からAIによって映像化を試みた作品、イアン・チェンのBob Shrineなども紹介される。ループではない映像作品の可能性。

テクノロジーの危険性。

AI (Artificial Intelligence) だけでなくAS (Artificial Stupidity)が必要であろう。別の講演だったかと思うけど、AIには無意識が必要であるとの主張。また、忘れることも必要だとも。最近のコンピューターの業界界隈では、倫理学が急速に注目され始めてきた。こうしたテクノロジーの危険性に対するモヤモヤとした危機感、そうしたものを提示することこそがアートだと思う。

テクノロジーを使い、抑制、監視と戦う黒人女性アーティスト。テクノロジーは所詮は道具、どのように使うのかは人次第。アーティストは世にあるものの見方、社会との接点について、とても特別な目を持っている。こうした目、あるいは思考を少しでも借りられたら、それがアート思考のひとつなのだろうけど、そうではないと思う。ビジネスパーソンがアート思考を活用するとは、そういう剽窃ではなくて、作品との対話から生まれてくるものだと思う。

いろいろと気づきがあった。

彼のキュレーターとしてのネタ元として何十年も参照している作家Édouard Glissant。どうやって見つけたのだろうか。いろいろと興味は尽きない。ともかくサーペンタインギャラリーに行ってみたくなった。

当日の講演は、YouTubeで公開されている。東京藝大すごいな。




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