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【役員インタビューvol.5】動き続けることで自ずと道はできる~大槻昌美さん

Polarisは現在13期目。全国津々浦々、約200名のメンバーが業務委託で働いています。組織が大きくなってきた今、Polarisの5人の役員がPolarisとどのように出会い、Polarisをつくってきたのか、改めてインタビューを行いました。

今回はインタビュー最終回。創業メンバーであり、現代表である大槻昌美さんです。昌美さんは2016年に望美さんから代表を交代。代表でありながら、いつもさまざまな現場を飛び回り、誰よりもフットワークの軽い印象があります。

そんな昌美さんですが、代表を引き継いでからの数年間は辛いと感じるときもあったとか。今回は代表交代の葛藤の時期について特に詳しく伺いました。

Polaris役員メンバー後列:野村香奈・野澤恵美
前列:山本弥和・大槻昌美(代表)・市川望美(ファウンダー)
最終回は代表、大槻昌美さん!

働きたくても働けない。葛藤の中で出会った子育てひろば

――Polarisで働く前はどんなお仕事をしていたのですか?

ホテルで働きたいという思いを持ち、茨城から東京に出てきたのですが、結果的に、一般企業で事務をしていました。当時はまだ結婚や出産で退職することが当たり前。それでも妊娠したときには、保育園に子どもを預けて、仕事もがんばろうと思っていました。ところが、上司に「子どもは手元で育てる方がいいよね」と言われてしまい、とても働き続けられる環境ではないと思って退職しました。

産後、働きたくて市役所に相談したこともありましたが、保育園に空きがない。でも保育園に預けないと職探しもできない。もんもんとしながら、1日4時間散歩することもありました。家でじっとしていることは性に合わないので、とにかく外に出たかったんです。

――望美さんとは子育てひろばで出会ったと聞きました。

その頃は子育てひろばも有料でした。10回5000円ぐらいだったと思うのですが、自分へのご褒美として回数券を買って、大人と話すために通うようになったのです。望美さんはそこでカラーセラピーをしていました。当時はあまり話したことはなかったのですが、弥和さんと出会ったのも同じ子育てひろばです。

望美さんとの出会いから、子育て支援のNPO経由で、産褥期のお宅を訪問し、食事作りや身の回りのサポートをする産褥シッターもやっていました。依頼があった人の家に行って、冷蔵庫の食材を集めて、2時間で作るんです。料理は特別好きではありませんでしたが、私がいることでお母さんが少し寝れたり、話し相手になったりもできます。

自分の子どももまだ0歳と2歳のころ。食事作りの間は、保育園の一時利用や友人に預けていました。保育料を考えると、手元に残るお金はほとんどないけど、お金じゃなかったですね。誰かの役に立てることが嬉しかったんです。

自分にできることを探して動き続けた子育て期

――Polarisの設立メンバーになってほしいと言われたときはどんな気持ちでしたか?

子育てひろばの運営スタッフや、食事作りの仕事、それに一つ加わるぐらいの感覚で、特別に気負うようなことはありませんでした。とにかく働くことをしたかったので、役割が増えることが嬉しかったのです。

望美さんから起業の話を聞いたころは、ちょうどこれからどうやって稼いでいこうかと考えていたときでした。

子育て支援を続けることを考えて、保育士の資格にもチャレンジしましたが、保育士が向いているかというとそうでもなかったと思います。他に、何かスキルや資格があるわけではない。自分に何ができるのだろう?と考えながら、動き続けていました。

望美さんからPolarisの構想を聞いたとき、今後を模索していた自分の思いに重なるところを感じました。

――昌美さんにとっては、「動く」ということがキーワードなんですね。モヤモヤして立ち止まってしまうようなことは、あまりなかったんですか?

稼ぐことの必要性は感じていたけれど、そのときに一番大切だったのは、自分を活かせる場があるということでした。だから、食事を作りに行ったり、子育てひろばの立ち上げをやることで、毎日やりがいを感じていたので、思い悩むようなことはなかったですね。

まずは行動して、後から意味を理解するタイプなんですよ。だから、その後セタガヤ庶務部を立ち上げて、やってみてから、望美さんの言っていたことを理解できたというか。自分には働き続けられることが大事で、そのための仕組みを今つくっているんだと感じることができました。

PTAの活動が”二代目の壁”を乗り越える転機に

――設立4年目の2016年に望美さんから代表を交代しましたね。改めて、どんな経緯だったのでしょうか。

当時は創業のドタバタが落ち着き、少しずつ実績もできてきたころ。それまでは望美さんが組織を引っ張ってきたけれど、よりみんなのPolarisにしていきたいね、と役員で話していました。2015年には、創業メンバーである弥和さんが抜けて、恵美さんが新たに加わっていましたが、今のタイミングだと、代表を引き継ぐのは私かな、という感じでした。

最初は気楽な気持ちで引き受けてしまったのですが、そこからが大変でした。周囲は望美さんのようになる必要はないと言うけれど、どうしても望美さんと自分を比べてしまって。会議でうまく話せないし、Polarisの会議に出ることが怖くて仕方なかった時期もありました。

――代表交代の辛い時期を乗り越えたきっかけは?

娘の小学校のPTA会長になったことです。これも「私たちは副会長をやるから、会長をやってほしい」と知り合いに言われて、なんとなく引き受けたのがきっかけ。でもなってみたら、周年行事があったり、PTA改革に取り組むことになったり、ハードな時期でした。

PTAにはいろんな人がいました。上の兄弟のときと違うと言って怒ってくる人や、言い方が上からだという人など、さまざま。

あまりにもいろんな人がいるので、「全員に好かれるのは無理。嫌われても別に大丈夫」と思えたことは、大きな収穫でした。Polarisでやっていた会議の進め方やコミュニケーションのとり方をPTAにも取り入れることで、改めてPolarisの価値を感じることもできました。

最後は、恵美さんの「昌美さんがどうしても辛いなら辞めればいい」という一言で、ようやく「私は私でいいんだ」と吹っ切れましたね。

望美さんと昌美さんが違ったように、
Polarisの中に、さまざまなリーダーが育ってほしいと昌美さん。

楽しいから走る。ゴールで得られる達成感。

――昌美さんは、Facebookによくランニングの投稿をされていますよね。いつから走っているんですか?

みんなによく走っていると思われているのですが、実は習慣的に走っているわけではないんです。1人で早朝に起きて走る、とかはできなくて、みんなで楽しく走ることが好きです。

印象に残っているのは、2015年の秋です。二子玉川から神奈川県の大山まで100㎞歩くという企画があり、開催の2日前に参加を決めました。2015年も悩みが多かった年で、何か達成感が欲しかったんですね。ここでやらないとダメだ、と思ってしまい、急遽参加。無事に歩ききりました。

いろいろな企画に参加するようになったのはそれからです。仲間と山手線を少しずつ走って1周したり、箱根駅伝の区間を一つずつ走ったりしました。ランニング仲間とは、楽しく走るのが目的。仕事の話もそんなにしない。それがいいんです。でも、結構みんなで真剣に走っています。

――振り返ってみると、代表交代の時期にPTAやランニングという複数の居場所をつくっていたんですね。

そうですね。複数の足場を持っておくことは大事だと思います。特にランニングは、足を前に出していれば必ずゴールできる。小さな達成感を感じられるのが自分に合っていると感じます。

いくつになっても働いていたい

――最後に、昌美さんにとって“ここちよく暮らし、はたらく”とはどういうことですか?

私にとっては、働き続けられることが一番大切ですね。おばあちゃんになっても働いていたい。マンションのエレベーターを掃除したりしながら、笑顔でみんなを見守っているような存在になりたいというイメージはあります。

――それで、実はあの人代表だった、みたいな。

そうそう。前に出て行かないけれど、誰かが困っているときに、何かを手渡してあげられたらいいですね。


代表交代については、こちらの記事に詳しく書かれています。バトンを渡した望美さんの苦悩も。代表交代には、どちらの側にも葛藤がつきものなのですね。

今回で、Polaris役員インタビューは終了となります。
改めて創業ストーリーや、役員メンバーとPolarisの出会いを聞くことで、一人ひとりの自主自律を大切にすると同時に、チームで働くことにこだわるPolarisの組織文化の根幹に触れたような気がしました。

他の役員メンバーのインタビューはこちらからどうぞ。

■インタビュー
武石ちひろ(Polaris)・戎晃子(Polaris)・杉山美穂(Polaris)

■執筆
武石ちひろ(Polaris)

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