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他者の靴と私の靴|ブレイディ みかこ 『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』(2)

市川望美です。この本からのつながりでいろんな本に寄り道してしまいまして、続きを書くのに結構時間かかってしまいましたが、アナーキック・エンパシーシリーズその(2)です。

その(1)はこちら。


補足:「他者の靴を履く」とは、ブレイディみかこさんの前著『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』に登場した英語の慣用句。「エンパシー」について説明する試験問題が出たとき息子さんは、「誰かの靴を履いてみること」と書いたというエピソードが書かれています。本の4ページしかこの「エンパシー」について書かれていないのに、とても反響があったそうで、今回の本はこの「エンパシー」に関する部分を掘り下げた感じになっています。


「共感」は面倒でやっかい。

前回の記事には、いろんな切り口で「響きました・・・」とコメントをいただいたのですが、そこから感じたことは、「共感」ってものはやっかいなんだなということでした。特にこのあたりにすごく反応をいただいたんだけど、

意見が違うときに「間違っちゃった!」と落ち込んだり、「空気悪くしてすみません」と自分を貶めたりしなくていい。「能力」なら獲得できるし、教育可能なのだから、エンパシーを、関係性の中で獲得して育んでいけばいい。

人と関わることは面倒だったり、違うこと=多様であることって、とっても面倒くさい。だからこそ、変に割り切ってしまったり、閉じてまもったりするのかもしれないけど、それは「違う」人を感情的に共鳴して心を寄せたり、違う人を「受け入れ」ねばならないと思い込むからめんどいのではないだろうか。

別に、同じ思いになる必要はないし、共感する必要もない。


それって、誰かを感情的に受け止めたり、気持ちを汲み取ったり寄り添おうと心を砕いてはいるものの、それに疲れてしまっている、、ってことなのかな。

『相手の気持ちを受け止めなくっちゃ・・・・!!』と思って日々頑張っているけどそれが上手くできなくて、そんな自分にがっかりしてしまったりする人も、『全くピンとこない・・・』と途方にくれたり、『正直全然共感できない』と、変に切り捨ててクールな感じになってしまっている人も、「シンパシー」と「エンパシー」という2つの言葉の意味を知ることで楽になるかもしれない。そんな発見がこの本にはありました。


「共感ではない他者理解」で、共感に潜む押しつけがましさを越えていく。


人と関わりたくないわけではないけれど、関わるのは億劫だなあとか、ちょっと怖いなあとか、もしかしたら過去、「人と上手く関係できなかった痛み」がある人にとって、シンパシーとエンパシーを知ることは、一つの救いになると思うのです。

必ずしも同じ気持ちになる必要はなくて、知ろうとする努力をしたり、その人の立場だったら自分はどうだろうと想像してみることでいい。それだけでいい、そこから始めればいいんだと思えたら、必要以上に自分を追い込まないで済むかもしれない。

無理やり自分の内側から共感を引っ張り出すのではなく「他者の靴を履く」という知的作業なら、ちょっと苦手なあの人に対してできるかも・・。そんな前向きな気持ちになれるかもしれない。

「共感ではない他者理解」について知ることで、「共感」って言葉に潜む息苦しさ、押しつけがましさを越えていける。共感というものを、能力としてとらえ、スキルとして磨いていくことで、関わる人の種類や、関わり方のバリエーションを増やすことができるんじゃないかな。


そもそも、なぜ「他者の靴を履く」必要があるのか。


なぜ他者の靴を履かないといけないのか。それは、今私たちが生きている社会は、VUCAという変化の時代、多様性の時代の真っただ中にいるからにほかなりません。

変化の時代だということは、今までのあたりまえが通用しなくなるということ。多様な人がいるということは、自分と異なる感覚の人が多いということ。今までの感覚で「共感による信頼」」をベースにしようとすると、うまくいかないことが増えてしまいます。

でも、「他者の靴を履く」ということができれば、他者との違いに振り回されることが減るかもしれないし、今までの「あたりまえ」が変わっていく時代の中にあっても不安に押しつぶされそうになったり、疲弊することなく、広い世界の中、新しい発見を楽しみながら生き延びていくことができるのではないでしょうか。


「私の靴」、大事。


そして、「他者の靴を履く」上で忘れちゃいけないのは、「私の靴」を「履いている」ことで、その上でそれを「脱ぐ」ということが大切だということ。

「誰かの靴を履いてみる」ということは、他者を他者のまま理解することであり、他者の靴を履いて、そこから見えること感じることを味わったとしても、その人に成り代わるわけではない。

私が、私の靴を履いていないと、その辺うまく処理できないだろうなあ。。

本の中で、親が子どもの靴を履きすぎて起こることについても書かれていました。子どもの体験を間近で見て分かち合っているうちに、子どもの経験が自分ごとになりすぎて、あれこれ考え、気が付けば子どもを支配し自分の思い通りに動かすようになってしまう。共感し、大切に思い、それが愛だとしても、それは怖い事だ。

『こうして子どもの成功は親の成功となり、子どもの失敗も親の失敗になってしまうので、親がすべての決断を自分で下し、子どもを従わせようとする。子どもには失敗を経験する権利があることを認めなくなるのだ。これなどは、他者の靴を長いこと継続的に掃きすぎて、本来の持ち主に返さなくなっている状態だろう』とありました。

子どもの靴を履いている間、「私の靴」はどうなっているんでしょうね。

「エンパシーの闇落ち」「エンパシー搾取と自己の喪失」「エンパシーの毒性」「バンパイア的エンパシー」とか、キャッチ―で興味深い話もあるので、エンパシーのその辺ふくめ受け取っていただけたら。

結局(2)で終わらなかったので、(3)へ続く・・・!

(Polarisが開催している「オーセンティック・ライフキャリア」という講座は、「私の靴」と「他者の靴」について理解が深まるなと思っていますので、おすすめ!アーカイブ受講もできますので、開講後にこの情報を見たとしても、間に合います!)

オーセンティック・ライフキャリア講座
ー自分に根差した価値観を取り戻す【第2期】

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――自分のものの見方や価値観は、
本当に自分のものなのだろうか。
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